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言語文化学の可能性 国際シンポジウムによせて 井元秀剛(1996年7月)

投稿日: 2019年11月7日

1. 言語文化学に対する二つのアプローチ

 

 私は、組織委員の一人としてこのシンポジウムに関わり、フランス語の通訳も担当したが、以下では言語文化部に属する一人の聴衆としての立場で、このシンポジウムを通して得られた言語文化学の可能性についての所感を述べてみたいと思う。

 プログラムについては藤本科長が紹介しているが、分科会は平行して進められるため、私が参加し得たのは「基調講演」「第二分科会(言語と情報科学)」「第三分科会(文化の「翻訳」)、そして「シンポジウム(言語文化学の可能性)」であった。言語文化学はその名が示すように「言語」と「文化」からなっていて、その研究の道筋も言語の側面らかするアプローチと文化の側面からするアプローチの二つが考えられるであろう。私は自分自身を一言語学者であると認識しているので、当然前者のアプローチをとることになるが、第二分科会はこの方向にあるものの、第三分科会はむしろ後者の、文化の側から言語にアプローチした内容で、非常に興味深いものであった。

 

2. 「言語文化学」の名称

 

 名は体を表すというから、学問の可能性を論じるにしても、まずその名称を俎上にのせることは当然の成りゆきであろう。シンポジウムでも私たちが用いた造語linguisticultureが話題になったが、名称を論ずるにあたって、「言語文化学」という日本語の名称と英語の名称とはひとまずわけて考えなくてはならないであろう。さて、日本語の「言語文化学」さらにそれを研究する学部としての「言語文化部」という名称は、最高とは言えないかもしれないが、かなり成功していると私自身は思っている。確かに「言語文化部に所属しています」と自己紹介すると、大学関係者以外では「言語文学部ですか」とか、「言語学部ですか」と聞き返されるこてもあるであろう。私自身も「言語文化部とは何を研究するところなのですか」と尋ね返された経験がある。しかし、同様な質問は「総合人間学部」や「総合文化研究科」さらに「人間科学部」などという現実にある学部や研究科の名称に対してなされるよりもはるかに少ないのではないだろうか。少なくとも「言語文化」という日本語から誰もが共通に描くであろう何らかのイメージが存在する。そしてそのイメージは実際我々がやっていることとあまり違いはないのではないかと思われるのである。そもそも、言語文化学は誕生してわずか20年あまりしかたっていない全く新しい学問であるから、文学や言語学のように100年以上も前から完全に市民権を得た既存の学問分野と比較することなど初めからできない。この新しい分野という事実を考えるとき、阪大でこの名称を採用して以来、同じ名称の学部がこの間に次々と誕生している事実をみても、大いに成功していると言うべきである。

 では英語のlinguisticultureはどうか。言語文化学が日本のみならず国際的に認知される学問となるためには英語の定訳も確定しておかなくてはならない。linguisticultureという英語名は今回のシンポジウムにあたって初めて採用された造語であるから、その日のうちに受け入れられることはさすがに難しい。シンポジウムの発言からこの部分に関係するものをひろってみよう。ガーストル『私は、linguisticultureは、言葉としては使いません。保守的かもしれませんが、どうも嫌いです。定着しては困ると考えるほどです。』 久野『私も同感で、発音ができないんです。なにかものすごく変な言葉です。やっぱりこういう標語はとても大切だと思います。すーっとみんなに受け入れられるような名前というのはものすごく大事です。linguisticul…、発音できないんです。どこにアクセントをおくのか、どこで止めていいのかわからないんです。』 レオンチェフ『私もこのlinguisticultureという用語、あまり好きではありません。なぜなら、ロシア語では重要視される言葉は最後に来ますから、この場合はcultureが重要視されることになります。ところが、学問としてはこれは言語学の分野であって、人間科学の分野ではありません。ですから、私は、やはり言語学の一部であって、文化を中心とする言語学の分野としての学問にkuljtura lingistiki (cultural linguistics)という名称を提案したいと思います。』このようにこの名称は概して不評である。どうも嫌いだ、なじめない、という反応は新語に対して耳慣れないが故に生じる自然の反応であろうと思えるが、発音しにくいというような具体的な論拠を持ち出されると、私たちとしても再考をせまられることになる。ただ、面白いのはレオンチェフ氏の言語文化学ならぬ文化言語学の提案である。つまり、言語文化学を言語学の一部と位置づけた上での発言だが、これとは全く逆の発言をアリュー氏がこの話題に先立って行っている。氏によれば、この名称は評価できるものであり、その評価すべき点というのが正に「文化」を「言語学」の上に位置づけたこの造語法にあったからである。

 こんなふうに言語と文化のあり方に対して逆の反応が見られるのは、上で述べたような二つのアプローチの違いによるものと思われる。私自身はレオンチェフ氏の当日の講演を聞いていないが、氏の経歴やプロシーディングスの内容を見てみると、やはり言語畑の出身で、言語から文化へのアプローチを志向する学者であることがわかる。しかし、言語文化学を言語学の一分野として捉えるという氏の提唱を文字どおりに受け取ることは危険である。氏にとって、『言語とは、ソシュール、あるいは構造言語学でいうところの言語ではありません。つまり、言語的単位の間の関係に基づくシステム、あるいは正しい言語的テキストの生成規則システムではないということです。言語とは言語化されうる意味のシステムです。つまり、言語コミュニケーション単位あるいは本来の言語単位の間の基層に存在しているシステムのことです。しかし、それらの意味は物質的なものにもなりえます。つまり、知覚イメージ、記憶イメージ、想像イメージに基づいて機能しているのです。その存在の様態において、意味とは、現代の心理学、特に、A. N. レオンチェフやその弟子たちによって理解されているような世界イメージを形成するものです。』とあるように、氏は通常言語学で扱う言語より一段高次のレベルで言語を捉え、これまでの言語を越えた全く新しい言語学を想定しているように思われる。確かに既存の学問分野によりかかり、その拡張を目指すという方向もあるかもしれない。しかし、これには既存の言語学からの大きな反発が予想されるであろう。

 そもそも一つの学問分野が多くの学者達によって確立されていく過程には、研究対象に対する共通の理解があって、相互に対話が成立することが不可欠である。今回のシンポジウムも言語文化学と名付けた学問の対象をはっきりさせようという試みに他ならない。言語学で扱う言語とは、ソシュールの流れを受け継ぎ、フランスの構造主義言語学の中心にいたA. マルチネによる、「二重分節の構造を備えた、意志伝達の手段」という定義に当てはまる存在である。二重分節とは記号を構成する基本単位が二つ以上あって、それが階層構造をなしていることをいう。例えば「言語」という名詞はこれで一つの単語であり、言語記号の一つの単位であるが、この一つの単位もまた「げ」「ん」「ご」というような音の単位に分析する事ができる。このように二重に分節化できることが、人間の言語のそして人間の言語だけがもつ特徴であり、ソシュールが分類するlangage (ランガージュ), langue (ラング), parole (パロール) にしても、チョムスキーが分類するcompetence (言語能力)とperformance (言語運用)にしても、マルチネが定義する言語の下位分類にすぎない。従って、その対象の本質をどのように捉えるかは別として、少なくとも言語学はその対象の外延に対して常に共通の了解があり、この了解があればこそ言語学は発展し、この対象から逸脱したことは決してなかったと、私は思う。レオンチェフ氏の言う「言語化されうる意味のシステム」というのは、これだけでは捉えどころがなく、果たしてそのようなものが存在するか否かも議論の対象になるであろう。おそらく氏が想定しているものは認知言語学が時折、スキーマと呼んでいる抽象的な意味構造に近いものであろう。とすれば、対象に対する客観性を保つためにも、言語とは別の名称をそこに与えるのが賢明であろうと思われる。その種のシステムを研究する学際的な学問分野として、認知科学がある。これは言語学、心理学、哲学、計算機科学などの研究者が構想した最近とみに注目を集めている学問分野で、言語文化学以上にはっきりと市民権を確立し、言語学もこのなかの一分野として位置づけられている。言語文化学もこのような学際性を持ち、文芸や文化といった精神文化的側面を射程にいれた研究対象を志向すべきであろうと思われる。

 では、やはり文化を中心においたlinguisticultureか、と問われるなら、私自身は「文化」と「言語」のどちらにも偏ることのない英語名を求めたい。それというのも既存の言語文化部はいかなる大学にあっても、外国語教育を一手に引き受けている現実がある。どこまでも言語に基盤をもち、教育にも通じる側面を重んじるなら対象は言語と文化なのであり、それらがどちらにも偏ることなく統合されていなくてはならない。現在の私たちの学部の英語表記はFaculty of Language and Cultureである。また、私が留学していたパリ第8大学の言語学科はその名称にScience du langage (Science of language)を使っている。そこで、個人的にはいささか冗長ではあるがScience of Language and Cultureと呼びたいような気がする。

 

3. 言語から文化へのアプローチ

 

 それではシンポジウムを通じて私が感じた二つの方向のアプローチについて、個々に検討してみたい。

 言語は、それを用いる人々の思考の土台であり、その土台の上に高度な文化が花開く、しかしそれがコミュニケーションの道具である以上、何らかの形で使用者に共通に理解されている仕組み、決まりがあるに違いない。その仕組みの構造は、言語による違いはもちろんあるであろうけれど、同じ生理的構造を持った人間が用いる言語なのだから、何らかの共通性も存在するはずである。それが一体何かを探ることで、ひいては異文化理解にも通じる道が開かれていくはずである。言語の研究には、バーロー氏の言い方を借りれば『個々の文化的な違いによる言語的な違いというより、人間が共通して持つ認知構造を反映する言語の共通性』を探る研究がある。言語の側からするいわばミクロの言語研究で、私たちは主としてこれを「言語情報科学講座」で扱っている。マクロな文化を論じるにあたってもこうしたミクロな研究を土台としなくてはならない。このミクロな分野は一面高度に理論的な側面も持つが、客観的な存在で、その情報を機械に乗せやすい分野でもある。機械というのは原則としてあいまいなもの、高度に主観的なものを徹底的に排除するからである。ミクロの言語研究は既存の言語学と最も近い位置にあるが、私たちは特に言語文化学における言語研究として、コンピューターを利用した言語工学の手法を積極的に取り入れた研究を行っている。久野氏も講演の中心は機械翻訳の可能性に関する言語学的、技術的問題に関するものであった。人間が無意識に用いている構文解析のメカニズムを機械にのせることがどれほど難しいか、またその難しさを克服するためにどのような工夫をしたらよいのか、について論じたのである。この講演の内容は典型的な「言語情報科学」のテーマであったといえよう。

 言語の解明はしかし、機械的形式的な構文処理だけで済まされるものではない。例えば、「フランスでは、ウォーターゲートはニクソンに何の害も及ぼさなかったろう」(G. フォコニエ、『領域と結合』in 「認知科学の発展vol.3」講談社1990年)とういような日本語の文の解釈を問題にする場合でも、この文には無制限の数の解釈が可能で「フランスなら、ウォーターゲートのような政治的スキャンダルが起きても、国家元首(すなわち大統領)には何の害も及ぼさなかっただろう」というような通常の解釈の他にも「ニクソンのフランス人的メンタリティを考えれば、もし彼がフランスの大統領であったら、ウォーターゲートのようなスキャンダルにもっとうまく対応しただろう」というようなものなどいくらでも考えられるのである。問題は「フランスなら」という形で導入される仮想世界のなかに「ウォーターゲート」や「ニクソン」がどのようにマッピングされるか、ということなのだが、これには現実社会でフランスがどのような政治機構をもっているのか、またウォーターゲート事件の社会的意味やニクソンがそこで果たした役割など、言語外世界の知識さらには文化に関する情報を考慮に入れなくてはならない。このように言語は文化と密接に結びついていて、その解析という最も機械的なレベルにおいてもその情報と無縁に研究することはできないのである。このように、言語をその使用の場なども考慮にいれながら行う研究を私たちは「言語コミュニケーション論」の中で行っている。またコンピューターを使ったコーパス研究など、地道な実証の積み重ねも「王用言語技術講座」で行っている。今回この分野における研究報告としてバーロー氏のものがあった。ー+\0?`

 氏はその講演の中で考慮すべき問題として次の3つを提示した。

(1) 言語学は文化研究に対して何が言えるのか。

(2) 言語と文化の関係は何か。

(3) どういう方法で言語と文化の関係について研究できるのか。

氏の講演はこの3つの問題に対する氏なりの回答であったと思われる。すなわち、語彙のコーパス研究を通じて、その語彙が用いられるコンテクストに関する文化的な背景をさぐることができる、というものである。氏はその中で言語コンコーダンスのコンピューター・プログラムを用いた研究が、言語と文化の関係についての研究方法としていかに有効であるかをしきりに強調していた。『非常に人間的で多面的な研究領域でのコンピューターの利用の有効性に疑問を持つ人がいるかもしれません』と断りながらも、自分の研究を引いて『コンピューター等のテクノロジー利用が、言語文化研究の一面を担うことは確かでしょう』と主張し、『言語コーパスに相当する文化コーパスのようなもの、たとえば、映像情報を含むマルチメディア情報を取り込んだような文化資料コーパスを考案するのも言語文化学のひとつの課題と言えるのではないでしょうか』という提言をしていた。このようにこの分野においてもコンピューター等のテクノロジーの利用は今日的課題であり、言語工学部門を備えた私たちの講座構成が時代の要請に即しているということがわかる。

 

4. 文化から言語へのアプローチ

 

 文化の側からの言語に対するアプローチであるが、これにもマクロのアプローチとミクロのアプローチの二つがあると思われる。マクロとはいわば国際社会の観点から一つあるいは二つの文化にとどまらず、他文化社会の接触と融合というように社会科学的な観点からの問題のアプローチである。またミクロとは個別の文化を、時には他文化と対照させながら文芸などを手がかりに徹底的に追及していくいわば人文科学的アプローチである。前者を私たちは「言語文化国際関係論講座」で、後者を「地域言語文化講座」で扱っている。私が参加した二日目の第三分科会はこの後者の研究に属するものであった。

 アリュー氏の翻訳に関する諸問題の講演は、翻訳というのは二つの文化の橋渡しであり、そこに言葉を支配する文化のあり方がみてとれる、ということを如実に感じさせるものであった。同じく翻訳を扱った久野氏の講演の内容と比較するとそのアプローチの違いがはっきりする。久野氏の(そして私もそうである言語学者の)翻訳の問題に対する関心は、一つの言葉の意味をいかに正確に他国の言葉に移し換えるか、という問題であり、文化的な情報の採り入れもあくまでこの目的に則した範囲内にとどまる。それに対しアリュー氏が扱ったのは、意味を越えた文体レベルの問題であり、ある作家の実験的な文体をどこまで翻訳の文体に反映させることができるかということを問いかけていた。例えばフランスでは自国文化の絶対性があり、翻訳文学のフランス語というのは編集者の校閲のもとに無色透明の標準的なフランス語に一様に置き換えられてしまう。そのため翻訳文化が自国文化の新たな変容の可能性に貢献することはない。聞いていると日本文化のあり方との本質的な相違に気づかされる。日本では「何が彼女をそうさせたのか」などの翻訳文体が、一つの文体として容易に市民権を確保し、作家の文体に影響を与えるほどの力すら持っている。こんな風にして見えてくる文化の相違は、翻訳の実務に当たっている人な度にとって絶えず念頭に置いておかなくてはならない問題であり、他文化とのコミュニケーションを円滑に進めていく上でも無視できないことがらである。ガーストル氏の発表は日本人の学会や研究会のあり方とヨーロッパのそれとの相違まで述べられていて、苦笑すると同時に、異文化接触における文化的側面の理解がいかに重要かつ面白い問題であるのかということを改めて感じさせるものであった。

 この他私が参加し得なかった第一分科会、第四分科会において、言語とアイデンティティや地域社会の問題などについて活発な議論が展開されたと聞く。今回のシンポジウムにより、言語文化国際関係論、言語コミュニケーション論、言語情報科学を3つの柱とする私たちの研究科構成のあり方の正しさが示され、この3つの柱の上にたつ「言語文化学」の姿がより具体的な形で現れてきたのではないかと思う。私は今回このシンポジウムに参加して、「言語文化学」を「言語とそれを用いる人々の営みを総合的に捉え、異文化接触と国際社会の相互理解に寄与することを目的とする学問」というふうに理解できるような気がした。現在言語文化部は大学における語学教育の任を負わせられている。現在の複雑な国際社会の中にあって、語学学校の外国語学習ではない、大学の外国語教育の土台あるいは背景として、言語文化学の持つ意味は大きいと思う。大学生が外国語を学ぶ意義は正に言語文化研究が究極の目標として掲げるものと共通のところに見いだされるのだから。

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