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日仏文化交流

北村 卓

日本とフランスの出会い

江戸時代末期に至るまで、フランスに関する情報は、長崎のオランダ商館を通して間接的に得られる程度でしたが、日仏両国の関係は、幕末の開国後、内外の情勢を反映して急速に進展していきます。

 皆さんもご存知のように、イギリスが薩摩、長州を援助するのに対抗して、フランスは江戸幕府を支持し、軍事顧問を送り込むとともに、横浜製鉄所、横須賀造船所、富岡製糸場、横浜フランス語学校などを設立しました。また幕府は、駐日フランス公使のレオン・ロッシュ(1809-1901)の要請で、1967年のパリ万国博覧会に将軍慶喜の弟、徳川昭武を代表とする訪問団を派遣しますが、このとき薩摩藩と佐賀藩も参加しており、パリに日本ブームを巻き起こします。これを機に日本からさまざまな文物がフランスに輸出され、とりわけ美術や工芸の分野で、いわゆる「ジャポニズム」(日本趣味)が流行することになります。またピエール・ロチ(1850-1923)は、海軍士官として日本を訪れた体験をもとに、『お菊さん』(1887)などの小説を著し、西欧読者のエキゾチックな好奇心に応えました。

 明治維新によってフランスの親幕政策は頓挫しますが、日仏両国間の友好関係は新政府にも引き継がれ、日本近代法の父とも呼ばれるボワソナード(1825-1910)など、多くのフランス人がお雇い外国人として日本の近代国家建設に寄与することになるのです。

『西洋事情』と『米欧回覧実記』

フランスの全体像を一般の日本人に広く知らしめることになるのは、いわゆる見聞録でした。その代表的なものは、まず幕府の訪欧使節の一員として1862年にフランスを訪れた福沢諭吉(1835-1901)の、当時のベストセラーともなった『西洋事情』でしょう。続いて、岩倉具視を代表とする欧米視察団(いわゆる岩倉使節団)に同行した久米邦武(1839-1931)が編修した『米欧回覧実記』第三編(明治11, 1878)に至り、政治、経済から風俗に至るまで、かつてない本格的なフランス紹介がなされることになります。この後、フランスの文化は、多方面にわたって、とりわけ芸術や文学の分野で近代の日本に大きな影響を与え続けますが、ここでは、文学に焦点を絞って話を進めていきたいと思います。

フランス小説の翻訳

 見聞録に続いて、多くの読者を獲得するのが翻訳小説です。『米欧回覧実記』が出版されたのと同じ明治11年には、川島忠之助が、『八十日間世界一周』(前篇)を、原著刊行のわずか5年後というスピードでフランス語原著から訳出しています。明治20年頃までは、ヴェルヌの翻訳件数が他を圧していますが、それは、科学の進歩による国威発揚のスローガンを背景に、広く世界に関心を持ち始めた日本人にとって、冒険科学小説はまさに時宜を得ていたためです。またこの時期、デュマをはじめとする歴史冒険小説のたぐいも多く翻訳されており、さらに明治20年以降は、森田思軒訳のユーゴー、黒岩涙香訳のボアゴベといった探偵小説仕立ての作品が次々と刊行され、広汎な読者層を獲得していくことになります。

ゾライスムと自然主義

 明治20年代前半には、森鴎外(1862-1922)がゾラの『実験小説論』(1880)を紙上で紹介し、それに端を発する坪内逍遙との論争を通して、ゾラの文学理論が文壇にも浸透していきます。鴎外はドイツ語訳で、またその他多くの作家は英訳でフランス小説を読んでいました。当初、ゾラに限らずフランス小説や演劇の受容のされ方は、筋立てはそのままで、舞台をそっくり日本に移し換えるという、いわば翻案風のものでしたが、その後、ゾライスムは、小杉天外(1865-1952)らによって称揚され、明治30年代後半以降は、ゾラ、フローベール、とりわけモーパッサンの作品が数多く翻訳されるとともに、田山花袋(1871-1930)や島崎藤村(1872-1943)らを中心とする自然主義が文壇を支配していきます。日本の自然主義は、田山花袋の『蒲団』(明治40, 1907)に代表されるように、「人生の真理」の「露骨な描写」を目指します。しかしながら、その対象は小説家が経験しうる身辺の些事というきわめて限られた範囲に限られ、日本特有の私小説的世界を生み出すことになるのです。ここにおいて、実証科学に基盤を置く生物学的な人間観や広大な社会への洞察・批判精神など、フランス自然主義の根幹をなすものはほとんど皆無といってよいでしょう。

上田敏と『海潮音』

 ここで、詩の分野に目を向けてみましょう。日本近代詩の成立過程においては、西洋の翻訳詩集が重要な役割を果たしています。まず最初に、ドイツ詩とイギリス詩を中心とする森鴎外らの『於面影』(明治22, 1889)が大きな反響をよんだ後、上田敏(1874-1916)が、『海潮音』(明治38, 1905)において、ボードレール、ヴェルレーヌ、ルコント・ド・リール、マラルメ、ヴェルハーレン、ローデンバックなど、フランス、ベルギーの象徴派詩人たちの作品を、その流麗な訳でもって初めて日本に紹介します。「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの・・・」で始まるヴェルレーヌの「落葉」は皆さんの記憶にもあるはずです。

 そして敏の影響を強く受け、実際に詩作を試みたのが蒲原有明(1875-1952)であり、詩集『春鳥集』(明治38, 1905)および『有明集』(明治41, 1908)で、日本の代表的な象徴詩人としての地位を確立します。当時、森鴎外とともに、文壇の主流にあった自然主義の陣営に対立する姿勢を取った上田敏の存在は大きく、詩集『邪宗門』(明治42, 1909)の北原白秋(1885-1942)や永井荷風(1879-1959)など、その影響は耽美派とされる詩人や作家の間にも広く及びました。荷風もまた有名な訳詩集『珊瑚集』(大正2, 1913)を刊行しています。

フランス文学受容の拡がり

 上田敏や永井荷風によって日本に蒔かれたフランス詩の胚芽は、大正期に至って成熟し、訳業としては堀口大学(1892-1981)の『月下の一群』(大正14, 1925)をもたらし、さらにこの土壌から、高村光太郎(1883-1956)、萩原朔太郎(1886-1942)、三好達治(1900-1964)、中原中也(1907-1937)らの詩人が生まれ出ることになります。

 小説の分野では、花袋らの自然主義に対抗した泉鏡花(1873-1939)が、メリメをその範として独特な幻想的世界を築き上げていきます。このようにフランス文学は自然主義にとどまらず、幅広く日本の文学に受容され、大正期には移入の域を脱します。そして、メリメ、アナトール・フランス、ルナールなどを十全に咀嚼した芥川龍之介(1892-1927)に代表される新しい日本文学の担い手が登場するのです。

現代の日本とフランス

 さて、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎(1935-)は、第二次大戦後、サルトルをはじめとするフランス文学から多大な影響を受け、作家として出発しました。このように、文化交流という点では、これまでフランス文化を日本が独自に受容するというパターンが主流だったのですが、近年はかなり様相が変化してきています。たとえば村上春樹(1949-)の「海辺のカフカ」の仏訳本はフランスでもベストセラーになりましたし、村上龍(1952-)やよしもとばなな(1964-)等もよく読まれています。また最近では谷崎潤一郎(1886-1965)の仏訳全集が刊行されました。文学に限らず、日本のマンガやアニメといったポピュラー文化も大きな関心を持たれています。またファッションの分野でも1980年代に登場した川久保玲らがフランスに大きな衝撃を与え、また今日、ワインブームの一方で、伝統的な日本料理がフランス料理に明らかな影響を与えつつあります。まさに双方向の文化交流の時代に入りつつあるといえるでしょう。

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