Xīnyuèpài Xīnyuèshè

新月派・新月社

しんげつは・しんげつしゃ


 1923年に「新月社」という団体を組織し、1928年に『新月』という雑誌を創刊したことから、新月派と呼ばれる。主なメンバーは胡適徐志摩梁実秋、陳源であり、その多くは『現代評論』派のメンバーでもあった。政治的には公然と共産党に反対し、革命に反対したとされる。文学的には、ブルジョア的人間性論をたたえ、プロレタリア革命文学に反対した。魯迅や革命文学陣営と熾烈な論争を繰り広げた。


新月社 1923年、徐志摩、胡適、陳西らは北京で新月社を発起成立させた。それは「食事会」から始まり、後に新月社倶楽部へと発展した。松樹胡同9号に事務所を設定し、開設の費用は徐志摩の父親徐申如と黄子美が支払った。新月社は純粋な文学団体ではなく、政客、銀行家、民族資本家、文人、軍人、社交界の花なども参加していた。例えば、梁啓超、張君[万力]、張君[王傲-イ]、徐申如、林徽音、王賡、陸小曼などである。しかし新月派は単に暇つぶし的性格のクラブでもなかった。徐志摩は『新月』週刊ないし月刊の創刊は、政治的見解を発表する園地であると考えていた。

 1924年、インドの詩人タゴールが中国にやってきたとき、新月社からは梁啓超が表に出て接待し、徐志摩が通訳を務めるとともに、済南、南京、上海、杭州、太原などでの講話に同行した。また新月社が組織して、話劇「チトラーンガダー」を上演し、タゴールの誕生日を祝った。これらの活動は、新月社の内外への影響力強めることになった。はるかアメリカに留学していた余上沅、聞一多、梁実秋、熊佛西などが組織した戯劇改進社からは、新月社に彼らの演劇改良活動を支持するよう手紙が送られた。余上沅、聞一多らは帰国後やはり新月社に参加した。

 1926年4月から6月にかけて、徐志摩が編集担当した『晨報』副刊「詩鐫」および「劇刊」が出版され、新月社の文芸界に対する影響がいっそう拡大した。「詩鐫」に発表された聞一多の「詩の格律」は、新格律詩を提唱し、それ以後次第に格律詩派が形成され、新詩の発展を促した。「詩鐫」「劇刊」は、新月社の名義で発行されたものではないが、この二つの副刊の主な編集者、執筆者はいずれも新月社のメンバーであった。同年6月以降、聞一多、饒孟侃、胡適、徐志摩らが相次いで北京を離れ、新月社は空中分解となった。(『中国現代文学社団流派辞典』上海書店1993)


新月派 1923年北京に、「食事会」形式から発展した団体新月社が現れた。その目的は、「数人の力を結集して、独自に劇を創作し、上演したい」ということであった。主な発起人は、徐志摩、胡適、陳西などであった。1924年の年末には、新月社倶楽部(松樹胡同7号)が成立した。その目的は、演劇活動に一つの固定した場所を提供することであった。メンバーは複雑で、文人、銀行家、政客、社交界の花などもいたが、演劇活動に熱心だったのは一部のものだけであった。

 1926年4月1日、徐志摩が主編をつとめる『晨報』副刊「詩鐫」(晨報詩刊)が登場する。毎週木曜日に発行、徐志摩、聞一多、饒孟侃、劉夢葦、於
虞などが主催した。作品を発表した人には、上記のほかに、朱湘、朱大[木丹]、蹇先艾、孫大雨、楊世恩、張鳴、王希仁、程侃声などがいる。晨報詩刊 は1926年6月10日、第11期まで出して停刊、期間は短かったが、中国新詩の歴史上一定の地位を占める。それは徐志摩、聞一多などの影響のもと、現代新格律詩という芸術形式の創造と実践への努力を追求し、「新月派」の「方塊詩」的特長を形成し、新詩の形式上の発展と繁栄を推進した。

 1926年6月17日から9月23日まで、徐志摩は『晨報』副刊で15期「劇刊」を出した。ここに文章を発表した人物には、徐志摩、
余上沅、丁西林、聞一多、趙太侔、陳西、梁實秋、蒲伯英、熊佛西などがいる。「劇刊」を出版した目的は、新劇に対する正しい解釈を示し、人々が新劇を重視するように望んでのことだった。しかし総体的に言って、「劇刊」15期はそれほどの社会的影響を生ずることはできなかった。

 1926年6月以降、聞一多、饒孟侃、胡適、徐志摩らは相次いで北京を離れ、新月社は空中分解。1927年春、徐志摩、聞一多、
洵美、胡適、余上沅、張禹九、梁實秋などは上海で新月書店を創設、胡適を理事長とし、余上沅を支配人(後に張禹九が引き継ぐ)として、主に新月派メンバーの著作を出版したが、後には丁玲、胡也頻などメンバー以外の人の著作も出版している。

 1928年3月、徐志摩、聞一多、饒孟侃らは上海で『新月』月刊を創刊した。1933年6月の最終号まで、全部で4巻43期発行した。月刊の核心人物は、徐志摩、聞一多、饒孟侃、胡適、梁實秋、洵美、余上沅、葉公超、光旦、羅隆基、陳西、張禹九、劉英士らであった。

 1931年1月20日、陳夢家、方瑋徳、方令孺らの建議にもとづき、上海で『詩刊』季刊も創刊された。初めは徐志摩主編であったが、後に洵美に交代した。発行は新月書店である。 『詩刊』に作品を発表したのは、徐志摩、陳夢家、方瑋徳、饒孟侃、邵洵美、方令孺、沈従文、卞之琳、林徽音、儲安平、程鼎、朱大[木丹]、梁鎮、兪大綱、沈祖牟らである。

 1931年9月、陳夢家は、『晨報・詩刊』、『新月』、『詩刊』に発表された作品から、徐志摩、聞一多、饒孟侃、孫大雨、朱湘、邵洵美、方令孺、林徽音、陳夢家、方瑋徳、梁鎮、卞之琳、兪大綱、沈祖牟、沈従文、楊子惠、
朱大[木丹]、劉夢葦ら18名の詩人の新詩80首を選んで、『新月詩選』として出版した。これが新月派としての代表的な作品集となった。

 1931年5月3日、上海の『民報』は、「中国は目下三つの思想が鼎立している。一、共産党、二、新月、三、三民主義、と。ゆえに「新月派」は組織的に散漫、メンバーが複雑、活動時期が断続的であったとしても、客観的には、欧米派ブルジョア知識人の政治思想、文芸思想を代表していた。彼らは国民党の専制政治に反対したばかりでなく、共産党の武装革命にも反対した。しかし、中国現代文学史上、新月派の初期の詩論、演劇論および創作実践における努力、独特の詩歌の風格は、新文学(特に新詩)の発展と繁栄に貢献をしたのである。

 「新月派」メンバーの複雑さによって、彼らの政治的傾向と文学的観点には一致するところと異なるところがあった。『新月』の「敬しんで読者に告げる」は、「我々月刊誌を運営する数人の思想は、決して完全に一致しているわけではない。それぞれの信じる主義は異なっている。」と声明している。梁實秋もこのように述べたことがある。「私は孤軍奮闘している。新月の友人で誰一人私を支持するために躍り出たものはいない。『新月』誌には、私のものを除けば、一編もプロレタリア文学に触れた文章はない。」(『魯迅について』「新月を憶う」)しかし魯迅は「文学と汗をかくこと」「『硬訳』と『文学の階級性』」などの文章で、マルクス主義の観点を用いて、梁實秋の文学の階級性を否定し、大衆文芸運動を否定し、プロレタリア革命文学を否定する観点を批判している。

 1931年以降、徐志摩は世を去り、聞一多と陳夢家は学術に向かう、というように「新月派」は分化していった。1933年12月、新月書店は正式に閉鎖され、ここに新月書店と『新月』月刊を主な標識としていた新月派も終わりを告げた。

(『中国現代文学社団流派辞典』上海書店1993)


関連資料

『新月派文学作品專輯』
『新月派詩選』
『新月派評論資料選』
新月的升起――新月派作品选华东师范大学出版社 1993.7/11.45元

  


作成:青野繁治