Nán Shè

南 社

なんしゃ


南社(台湾)

 1906年、連横、趙雲石、蔡玉屏、謝籟軒、鄒小奇、楊宜緑、王開運、劉明哲ら10余人が、台湾台南市で南社を創立、蔡玉屏が社長となった。1909年の蔡玉屏の死後、趙雲石が社長の職務を引き継いだ。

 南社は最初友人を集めて詩を吟じるのが主な活動だった。

 1930年9月9日、南社は春鶯社と共同で、『三六九小報』を創刊、王開運劉明哲らが責任者となり、その後、連横趙雲石らが主宰した。その趣旨は、「方言を考拠し、字義を探討して、時の人の詩文を登載する」(『三六九小報』創刊小言)というものであった。これは、定期的に発行される文芸性の強い雑誌で、三、六、九のつく日に発行された。内容は多くは文献資料で、「雑俎」「史遺」「古香零拾」「開心文苑」などの欄が設けられ、遺墨の収集、  の逸話、方言の考察、字義の探求、歌謡の収録、詩文の掲載などが行われた。

 連横の『雅言』と『台湾語典』の一部分がこの雑誌に掲載された。

 『三六九小報』はまず台湾における「郷土文学」のスローガンを提出した。鄭坤五は、台湾の山歌を収録し、「台湾国風」と題して、『三六九小報』に発表した。彼はまた数編の小品文のなかで、台湾語で創作することを強調した。連横が『雅言』で述べた「わが台湾人士が郷土文学を唱えている」と言ったのは鄭坤五のことを指して言ったのである。

 『三六九小報』は5年間続き、479号を印刷発行したのち、1935年に停刊した。南社の活動もこれで止まったのである。

(『中国現代文学社団流派辞典』上海書店 1993)


南社

  辛亥革命時期の進歩的文学団体。中国同盟会の成立とブルジョア民主革命の高潮の到来にともなって、「南社」が出現するのは、最初1907年頃で、1909年に蘇州で正式に成立している。発起人は、陳去病高旭柳亜子である。最初に「雅集」した十九人のうち、十四人が同盟会員であった。民族的気骨の提唱を呼びかけとしつつ、実際上は民族民主革命と呼応し、清朝の様々な抑圧と専制統治に反対するものであった。

 「南社」と命名したのは、「南音を操」り「旧を忘れざる」(左傳・成公九年)の意味であり、即反清革命を表していた。辛亥革命前には200余人の社員を擁し、辛亥革命後には1000人以上に激増した。政治思想は複雑化し、1923年には内部分裂によって、活動を停止した。

 南社の発起人の一人陳去病(1874-1993)は、江蘇呉江の人で、商人の家庭に生れているが、「江湖任侠の風」があった。詩作は多く、たいていは宋、明の民族的英雄、革命烈士、遊侠の剣客を称える内容で、それに借りて、革命の抱負と人生の感慨を述べようとしたものである。

 高旭(1877-1925)は、江蘇金山の人。地主の家庭に生れた。少なからぬ通俗詩歌を書き、革命を鼓舞した。その長篇の歌は、更に雄大で、奔放な革命の激情にみなぎっていた。辛亥革命失敗後、退廃的感情に沈んだ。

 柳亜子(1887-1958)は、江蘇呉江の人。1907年上海に遊び、陳去病、高旭らと南社の基礎を作った。1909年に南社が成立すると、彼は書記に選任され、南社のために多くの実際的活動を行って、更なる熱情を表現した。柳亜子は、その生涯で、旧民主主義、新民主主義、社会主義という三つの革命の段階を経験した。彼は熱烈な救国の真理の追求と、革命の堅持、不断の前進に執着した。その詩は政治的抒情詩である。彼は現実の広さと細緻の反映することには長けてはいないが、その描き出した時代の幅からいえば、近代詩人においては、唯一無二の存在である。

 南社の作家では、蘇曼殊(1884-1918)は別格で、広く敬愛された。その詩は雄壮にして悲涼、おぼろにして鮮明、当時の悲憤慷慨激昂型の愛国詩歌とは異なっていた。またある詩は、個人の感傷的微吟軽嘆の発露となっている。小説作品六編があり、いずれも愛情を主題としているが、言葉が清麗で自然であり、ストーリーは曲折に富み生き生きしている。

 南社の有名作家には、ほかに馬君武周実寧調元らがいる。

 南社のメンバーの詩、文、詞は、「南社叢刻」に集められ、1910年から1923年にかけて、全部で22集が出版されている。また『南社小説集』一集も出版されている。

(『中国文学藝術社団流派辞典』 吉林人民出版社 1992.11)


作成:青野繁治