Dōngběizuòjiāqún

東北作家群

とうほくさっかぐん


 もっとも早く抗日の主題を扱った東北作家は李輝英であった。1932年1月25日左聯の機関誌『北斗』は反日愛国を主題とする彼の短編小説「最後一課」(最後の授業)を掲載した。1933年3月には上海湖風書局から彼の長編小説『万宝山』が出版され、文芸界の注目を集めるとともに、茅盾によって「『反日』の文藝創作である」(「9.18以後的反日文学」1933.8『文学』1巻2号)という書評をもらっている。その後李輝英は『豊年』『人間集』などの短編小説集を出版した。彼の小説はほとんどが東北人民の民族意識の覚醒と抗日武装闘争を描いたものである。

 東北作家蕭軍蕭紅は、1933年、ハルピンで二人の最初に短編小説集『跋渉』を出版し、東北文壇の重視するところとなった。1934年、蕭軍は長編小説『八月的郷村』を、蕭紅は中編小説『生死場』を完成した。1934年10月、彼らは上海に到達した。1935年、この二編の小説は魯迅主編の『奴隷叢書』に入れられた。「東北人民の征服者に対する抗議の里程標的作品として」「上海文壇に小さくない新奇さと驚きを与えた。」(景宋「追憶蕭紅」1946年7月1日『文藝復興』1巻6期)

 同年、かつて蕭軍・蕭紅とともにハルピンで文学活動に従事していた舒群、羅烽、白朗も流亡の結果、前後して上海にたどりつき、抗日題材の文学作品の創作に着手した。舒群は、短編小説「没有祖国的孩子」(祖国を無くした子)を書き、東北に流れ着いた朝鮮人の子供の祖国を失った苦しみと日本の侵略者に対する復讐行為を描き出した。また中編小説『秘密的故事』、短編小説「戦地」なども創作している。

 羅烽は上海で、短編小説「第七個坑」、白朗は短編小説「生與死」を書いたが、いずれも東北人民の日本の侵略に反抗する闘争精神を反映するものであった。

 端木良は1933年から魯迅と手紙のやりとりが始まり、魯迅の励ましをうけて、長編小説『科爾沁旗草原』を創作し、1935年5月に上海の開明書店から出版した。1936年の初めに上海に至り、長編の二作目『大地的海』を完成するとともに、「紫鷺湖的憂鬱」「渾河的急流」などの短編小説を発表した。

 駱賓基は1936年5月にハルピンから上海に到着し、長編小説『辺陲線上』の創作を開始した。

 こうして、東北の作家たちは1935年から上海文壇に現れ、広く注目を集めはじめ、1936年になると「東北作家群」と文学史に呼ばれる集団を形成した。この年、上海の『作家』『中流』『文学』『光明』『海燕』『文学界』などの文芸雑誌は、比較的集中して、蕭軍、蕭紅、端木良、舒群、羅烽および白朗の作品を掲載している。また蕭軍はさらに短編小説集として『羊』『江上』、散文集『橋』を出版、舒群は短編小説集『没有祖国的孩子』を出版した。上海の生活書店は、『東北作家近作集』を出版したが、それは李輝英、舒群、羅烽、白朗らの作品を収めている。

 芦溝橋事件(七・七事変)によって抗日戦争がはじまると、東北作家は相次いで上海を去り、蕭軍、舒群、羅烽、白朗らは前後して解放区に向かい、蕭紅、端木良、駱賓基、李輝英らは国民党統治区にとどまった。それ以後彼らの作品は内地の生活を反映するものとなったが、東北地区の社会生活を反映する作品も書いている。たとえば、蕭紅の長編小説『呼蘭河傳』、蕭軍の長編小説『第三代』、駱賓基の長編小説『混沌』などは、いずれも東北作家の創作上特有の気質を鮮明に表している。形成の変化、時間の推移に伴い、40年代の中後期になると、各地に分散した東北作家たちは、それぞれが生活する地域の生活に溶け込み、彼らの描く作品の題材も東北地区の社会生活が主ではなくなって行った。それとともに、彼らの創作の特徴や彼らの集団的イメージは次第に薄らいでいった。

(『中国現代文学社団流派辞典』上海書店1993.6)


参考書

『東北作家群小説選』 王培元/選編 人民文学出版社 1992.6/7.55元



関連研究書

『十五年戦争と文学――日中近代文学の比較研究』山田敬三・呂元明/編 東方書店 1991.2.25/\2900(本体2816円)
『文学にみる「満洲国」の位相』 岡田英樹/著 研文出版 2000.3.24/本体\6500+税

 


作成:青野繁治