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Berlin

 ベルリン紀行

1999年の9月下旬から10月上旬にかけてドイツへ海外出張に行った。おもな目的はフランクフルトで行われた応用言語学会での研究発表だったが、日独センターのヴォルフガング・ブレン博士と会うため、日本からフランクフルトを経由して直接ベルリンへ向かった。その後フランクフルトに戻って学会に参加し、引き続きかつて長期留学していたデュースブルクでウルリヒ・アモン教授と会い、今後の研究について話して来た。ここでは、久しぶりに訪れたベルリンの印象やそこでメモしたことなどを記しておきたい。まずは、過去の思い出から。

ベルリン・ノスタルジー

ベルリンに初めて行ったのは今から18年ほど前で、その時は偶然列車の中で知り合ったティーナという女の子の家に間借りして住んでいた。それはいわゆるWohngemeinschaft形式の住まいでKreuzbergという地区にあった。

Wohngemeinschaftというのは、3LDKほどあるひとつのアパートを数名で借り、家賃をその人数で頭割りして払う方式で、安く、比較的心地よい住まいが借りられるためドイツでは学生などに好まれている住形態である。ティーナの住まいには、贅沢にも客間があった。と言ってもただの物置部屋だったが、一緒に住んでいたペーターとコレナも親切だったのでユースホステルより数段心地よく、気楽だった。

1980年頃のKreuzbergといえば、左がかった若者たちの手による不法占拠で有名だった。彼らは反資本主義の姿勢を貫き、巨額の資本による金儲けに異議を唱え、抗議行動をしていた。つまり、投機家によって建て替えが決まり壊される予定になった家々を、まだ使えるという理由で占拠し、自分たちで修復して勝手に住んでいたのである。それはおもにパンク姿の若者たちだった。また、大きなデモが日常茶飯事に行われ、何に対するデモかもわからぬまま、ただなんとなく参加したこともあった。あの強烈な、しかも和気あいあいとした光景は、今も忘れられない。

若者の集まる飲み屋では、一人で行っても決して一人で飲むようなことはなく、ある時などはお金のないぼくのために周りにいる人から50ペニヒずつ集め、ビールをおごってくれた学生がいた。突然、叫び声が聞こえると、客と店員の分け隔てなく、犬も人間も一緒に誰かの車に乗り、警官と若者の衝突を見物に行くような連帯の雰囲気もあった。そこでは、外国人だからといって差別されることはなく、初めて会ったドイツの若者と、論理的に考えるにはどうしたらよいか、革新とは何か、将来自分は何になりたいかという、当時のぼくらが抱えていた問題について話した。

この滞在の時、ベルリンフィルハーモニーで知り合ったある日本人女性はその日のうちにぼくを家に招き、お勧めの旅行場所を教えてくれた。プラハ、フィレンツェ、そしてスペインのアンダルシア地方。キリスト文明とイスラム文明が混ざり合ったところがすてきなのと、是非ともコルドバ、グラナダ、セビリアに行くといいと諭してくれた。彼女は、パリにいる日本人女性はたくさんいるがつまらない、ベルリンにいる日本人女性は少ないけれども、みな面白いと言っていた。たしかに、あの頃のベルリンの緊張感を持ちこたえられる人は男であれ女であれ立派だろうと思った。陸の孤島として東ドイツの真ん中にあり、常に危険にさらされていたベルリン。今では彼女の名前も顔も忘れてしまったが、マルクス主義の研究をしている社会学者で、当時のぼくを村上春樹の「羊をめぐる冒険」の主人公のようだと形容していたことだけ覚えている。

あの頃、ブランデンブルク門の手前にベルリンの壁があり、その向こう側には灰色の東ベルリンがあった。物理的な距離と実世界の距離とがあれほどまでに違うことが感じられたのも、当時のベルリンの特徴だった。東ベルリンに行くと、そこはどんよりと薄暗く、商業的なポスターも広告もないため色彩に乏しく、車の色も建物の色もモノトーンで、不思議というより、むしろ不気味だった。

「菩提樹下と訳する時は、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪のごときウンテル−デン−リンデンに来て、両辺なる石畳の人道を行く組々の士女を見よ」と『舞姫』にあるが、そのウンテル−デン−リンデンには、黒ずんだ建物が押し黙ったように立ち、「なんらの光彩」も、「なんらの色沢」も、まったく認めることはできなかった。当時の東ベルリンにあったのは、陰鬱な雰囲気だけだった。

その後、大学の外国人局が主催するベルリン旅行に参加したり、壁が崩れた後に友人と訪れたことがあるので、今回のベルリンはかれこれ五度目になる。

首都ベルリン

かつての、ぼくにとってのベルリンの特徴であった反資本主義、連帯感、緊張感は、もはやまったく消え失せていた。二一世紀の世界都市ベルリン。まだまだ工事現場だが、その隙間から将来のベルリンを垣間見ることができる。美しく、モダンで、しかも気品のある街だ。

日独センターのブレンさんの提案によって、旧東ベルリンのフリードリヒ通りやオラニエンブルガー通りを歩いてみた。まさに、世界で一番新しい街。あのどんよりと薄暗かった東ベルリンが、今ではクーダムより輝いて見えるのだから、資本の力はすごい。フリードリヒ通りの地下道、パッサージュが特に美しかった。そのカフェーの片隅に、高価な服を着た数名の日本人女性がたばこをくゆらせ、まるで、銀座か六本木にいるかのように談笑していた。きっとヒルトンホテルにでも泊まっている人たちなのだろう。現在のベルリンを、新しいドイツの首都として素直に受け入れているようだった。無論、話しかけられるような人たちではなかったため、そそくさとその場を後にした。

ノスタルジーに浸っていても仕方のないことは重々承知していたはずなのに、かつて住んでいたティーナの住まいを探してみたり、若者の集まりそうな飲み屋を見つけては、ビールを飲んでみた。ところが、かつての住居は見あたらず、ひとりでビールを飲んでいても誰も声をかけてくれなかった。考えてみれば、もはや21才の若者ではなく、腹の出た中年で、しかも130マルク以上するホテルに泊まっている「金持ち」なのだ。「連帯」や「反資本主義」など、所詮縁のない世界に住んでいるのである。この滞在では、そのことを思い知らされた。

手記より

今回、ベルリンにいる間、思い出のためメモを取っておいた。すこしは臨場感が出るかもしれないので、部分的に抜粋してみよう。

11時間の飛行機旅行を終え、今はフランクフルトの空港でコーヒーを飲んでいる。飛行機の中では日本語が支配的だったのに、ここではさすがにドイツ語ばかりだ。そう言えば、飛行機の中で、隣に座っていた60才前後のご夫婦に、「学生さんですか?」と尋ねられてしまった。今なお学生に見られるとは。嬉しいとは思わないが、まんざら不愉快でもない。それでも、「はいそうです」とは言えなかったし、まして「いいえ、大学でドイツ語を教えています」とも答えられなかった。もぞもぞと、「ええ、まあそんなようなものです。」

今、ここフランクフルトにいてちょっと気になるのは携帯電話の普及と階級制度だろうか。ビジネスクラスとエコノミークラスで、待合室での座る場所が違う。当然といえば当然だが、いかにも露骨だ。でも、エコノミークラスなのにコーヒーが無料で飲めるのだから日本に比べるとドイツの空港は気前が良い。

携帯電話が気になるのは、利用者がまわりの迷惑を顧みず、当然の権利として、堂々と大きな声で話している点である。もっとまわりのことを考えられないものか、と思ったがこれも日本人的発想なのかもしれない。

9月26日。ベルリンマラソンが開催されていた。偶然そのコースに出くわし、10時45分ごろまで見物した。最初は車椅子、それからローラースケートの連中がマラソンコースを走っていった。その人たちもかなり多かったが、マラソンランナーの人数はものすごかった。

トップ集団のランナーを見たときには、美しいと思った。世界のトップレベルで競っている人たちはさすがに速い。それから150名ぐらいはセミプロの人たちだったのだろう。おそらく2キロ7分30秒くらいのスピードで走っていたように思う。ぼくも中学生のときにはあんな風に走ることができたのだ。トップ集団が風のように走り去ってから45分ほど見ていたが、最後のほうはほとんど歩く程度の速度だったので、ともかく完走を目指しているランナーのようだった。それにしてもものすごい人数で、老いも若きも、男も女も、犬を連れた人も、ベビーカーを押していた人もいた。最初のうちはなんとなく眺めているだけだったが、だんだん拍手をして応援するようになっていた。ぼくもあと10年くらい体を鍛えれば、マラソンができるようになるだろうか。

ベルリンはまだまだ工事中だ。10月10日に選挙があるため、そこら中にSPDやCDUのポスターが貼ってある。SPDのコピーにBerlin bleibt doch Berlin。(ベルリンはやはりベルリンのままだ)というのがあった。けれども、あの工事現場の光景を見ていると、とてもそうは思えない。むしろ非常に変化しつつあるため、たとえどんなに変わっても、ベルリンはベルリンのままでいて欲しいというベルリン市民の願望を表しているのだと思った。

今のベルリン(かつての東ベルリン)を歩いていると、時折、壁が見え、それが旧東独時代の廃墟となった建物とともに89年以前の時代を髣髴とさせ、新しく建てられたきらびやかなビルや、今なおそれらを建て続けているクレーンの姿と絶妙のコントラストをなしている。かつてベルリンの若者が拒んでいた新しい建物や豪華なビルが、否定しがたい現実として目の前にあり、その合間にペルガモン美術館やドームなど、昔からあった荘厳で重々しい建物が見える。

まさに歴史が変わろうとしているその瞬間なのだ。そう思う一方で、新しい建物が建てば、それで歴史が変化することになるのだろうか、とも自問してしまう。

歴史について、ヴァルター・ベンヤミンはいったいなんて言ってたっけ?

もしも、ベルリンが女性ならば、今のベルリンは、奇麗に化粧をした、上品な感じの大人の女性だ。ぼくの知っている18年前のベルリンは、今のような優雅さはないけれど、内に潜んだ(資本主義と社会主義という)二重性がとても魅力的で、すべてを批判的に眺め、問題があればすぐに行動に移す溌剌としたおてんば娘だった。

今は美しい部分だけが強調され、そのかわりにかつてあった批判精神がまったくなくなってしまった。ベルリンは、やんちゃ娘からおとなしい貴婦人になりつつある。しかし、カネの言いなりになっているため、まったく面白くない。

9月27日。今日は、工科大学近くの本屋で本を買ったが、重かったのでホテルに本を置いて、それからバスでフリードリヒ通りに行った。今は、ちょっと風変わりな喫茶店に来ている。店員が一人しかおらず、セルフサービスの店なのだが、最初はそれに気づかず、ただボーとしていた。

今、ぼくの前で座って話している人たちがどこの人なのかわからない。結局、ぼくに見当がつく言語はせいぜいドイツ語と英語であり、他のヨーロッパの言語はほとんどわからない。まさに、ヨーロッパは多民族、多文化、多言語の地域なのである。

そうそう、ベルリンは美しくなった、その話だった。子供にベルリン土産としてTシャツを買ったのだが、そこの店員のおにいちゃんが旧東独出身の人で、ぼくにどこ出身かと尋ねてきたのでいろいろと話をしたが、何かといえばポジティブに見なければいけないと言っていた。統一は、どちらかと言えば良かったのだ。もし統一されていなければ、今も、10年後も、ずっとあのままだったのだから。

そうか。そう言われると、たしかに多くの問題はあるけれどそう考えるのが妥当なのかという気にもなってくる。それでも、やはり素直に受け入れられないのはなぜだろう。

では、ぼくはいったい何が気にくわないのか。デモをする若者がいないことが気にくわないのか。誰からも声をかけてもらえないのが、ここに来ている金持ちの旅行客が、それとももう若くない自分が気にくわないのだろうか。

昨日は、あれからベンヤミンの本を読んだ。今日9月27日はベンヤミンの命日だった。彼は48歳で亡くなっているけれど、それまでの行動がナチスに対する批判であったことを考えると、きっと捕まって殺されることが恐ろしかったに違いない。新しい芸術である映画とナチス批判をうまく取り込んでいるようだが、日本でベンヤミンはどの程度理解されているのだろう。どの程度の影響力を持っているのだろう。

考えてみれば、ベルリンの表面的な変化に惑わされ、統一後のドイツ人に批判精神がなくなっていることが気にくわないと言いたかったのだろうが、やはり日本の問題に立ちかえらざるを得ない。

それにしても、ベンヤミンのメッセージは何だったのだろう。いつまでたってもわからぬままなのだろうか。

9月28日。今日は、ブレンさんのところに行ってから、フィルハーモニーに行ってチケットを買い、新しくなった旧帝国議会議事堂に行ってガラス張りのドームを見物し、それからベルリンフィルでマーラーを聞いた。

フィルハーモニーで音楽を聞いて、あの音は18年前と変わっていないと感じた。つまり、変化していくものもあれば、変化しないものもある。

旧帝国議会議事堂のドームの上まで登っていくと真中に木で作られた半径3メートルほどの円状の椅子があり、そこにイタリア人らしき学生たちが寝転んでいた。ぼくも真似して寝転んでみた。するとドームの真上の丸い枠の中の青空を、雲がゆっくり流れているのが見えた。ふと、「白雲千載空しく悠々」という『黄鶴楼』の一節を思い出した。

雲が流れると、丸天井の中に見える小さな空の模様は変わるが、雲自体もあまり変化していないし、雲が流れるという事実も変化していない。とすれば、ぼくが見ていた今までのベルリンも、この小さな枠の中で絶え間なく変化する空の模様と同じではないか。大空では、いまも昔も変わることなく悠々と雲が流れている。

昨日までは、ベルリンの変化を目の当たりにし、また自分が若かったときに見た光景が失われていたため、少し沈んだ気分になっていたが、ベルリンフィルの音楽を聞き、やはり変わっていないものもあることに気づいて安心した。白雲千載空しく悠々。それを思えば、地上の変化など大したことではない。

時代閉塞の現状

上に挙げた『黄鶴楼』も『舞姫』も、ぼくが高校3年の頃、「国語」の時間に教わったものだ。なぜ今ごろまでそんなことを覚えているかと言えば、そのときの先生の話がうまかったからだと思う。

仲子義人というその先生は、『舞姫』のなかの「かれはすぐれて美なり」の説明で、これはドイツ語ならwunderschönだろうと言い、ついでにハイネのIm wunderschönen Monat Maiまで教えてくれた。ぼくがドイツ語に興味を持ったのも、先生のお蔭だ。また、『黄鶴楼』の説明でも、「万事、白雲千載空しく悠々だ、」と教室の窓から外を見ながら言っていた。

その仲子先生が、「あの森鴎外ですら、石川啄木の『時代閉塞の現状』は書けなかった」と話していたのを思い出す。鴎外がメインストリームに倚りかかった秀才だったのに対し、啄木には倚りかかるものがなかった。それだけに明治43年の時点で「強権」としての「国家」の危険性を指摘できたのだ。

時代閉塞の現状は、しかし、今も続いている。

「見よ、我々は今どこに我々の進むべき路を見出し得るか。ここに一人の青年が有って教育者たらむとしているとする。彼は教育とは、時代がその一切の所有を提供して次の時代のためにする犠牲だということを知っている。しかも今日においては教育はただその「今日」に必要なる人物を養成するゆえんに過ぎない。」「一切の「既成」をそのままにして置いて、その中に、自力をもって我々が我々の天地を新に建設するという事は全く不可能だ。」「我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想である訳はない。一切の空想を峻拒して、そこに残る唯一の真実―――「必要」!これ実に我々が未来に向かって求むべき一切である。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。」

「明日の考察!これ実に我々が今日において為すべき唯一である、そうしてまた総てである。」

これらの啄木の言葉を、かび臭い明治の他人事として聞き流せる人がどれだけいるだろう。ぼくには、むしろ今日の我々に対する叱咤激励にさえ思える。いかなる「主義」によってかは定かでないが、今もなおぼくたちはやれ会議だ、仕事だといって、本当に必要な未来像を考えるための時間を食いつぶしている。ゆっくりと腰を据えて、未来に必要なものが何かを考えてみてもいいだろう。

ベルリン紀行が、ひょなことから啄木のいう「明日の考察」に行きついた。考えてみると、ぼくが18年前にベルリンで感じたことは、たんなる批判精神ではなく、当時のベルリンの若者が、常に「明日」や「理想」を追い求めていた事だったのだ。それをすっかり忘れていた。たとえベルリンが変わっても、たとえ大学の形がどう変化しようと、あの姿勢を忘れないでおきたいと思う。