Shānyàodànpài

山药蛋派

さんやくたんは(じゃがいも派)


解説:

 山西の作家趙樹理を代表とする、農村生活を反映し、民歌化、大衆化を特徴とする小説流派。趙樹理派、山西派ともいう。この流派の形成は1940年代に始まり、50年代に成熟した。

 1943年、趙樹理は小説「小二黒結婚」を創作し、出版後農民の歓迎を受けた。これは山葯蛋派の基礎を築いた作品である。続けて彼は「李有才板話」「李家荘的変遷」などの作品を発表し、次第に自己の風格を形成していった。
40年代に、山西のその他の作家たちは多く趙樹理と同じように、山西の農村に深く入り込み、農民の生活を反映し、民族化され大衆化された作品を創作した。馬烽西戎『呂梁英雄傳』、馬烽の『張初之的故事』、西戎の『誰害的』、束為の『紅契』、孫謙の『村東十畝地』、胡正の『長煙袋』および孔厥、袁静『新兒女英雄傳』康濯の『我的両家房東』など、いずれも広大な大衆に歓迎された作品で、ここに流派としての雛形が形成された。

 新中国成立後、馬烽、西戎はもともとの創作伝統を保持し続け、農村生活を反映した、民族風格をもつ大衆化された作品を数多く創作した。馬烽の「我的第一個上級」「太陽剛剛出山」、西戎の「宋老大進城」、「頼大嫂」、束為の「老長工」「遅収的庄稼」、孫謙の「傷疤的故事」「南山的灯」、胡正の「摘南瓜」「兩個巧媳婦」などがそれにあたる。趙樹理は「登記」「三里湾」「鍛錬鍛錬」などを創作した。これらの作品には、濃厚な地方的特色があり、流派としての特色もはっきりしている。「山葯蛋派」が成熟したというゆえんである。
 
 山葯蛋派は、宋元話本小説、民間評書、評話および戯曲の伝統を継承し、勧善懲悪を主張、真善美を賛美し、偽悪醜を批判し、文芸作品を生活の教科書とみなした。趙樹理は言う。「私たちが小説を書くのは、説書唱戯と同じく人を感化することにある」と。「人を感化する(原文:勧人)」とは、山葯蛋派の創作上の主旨にほかならない。趙樹理は「問題小説」を通じて「感化」の目的を達成する。彼は言う。「私の書いた小説は、私が農村の実地工作でぶつかった問題である。その問題が私たちの仕事の進展の妨げになるなら、それをとりあげなければならない。」1943年、彼は山西遼県(現左権県)政府に駐在していたころ、家主が言う話を聴いた。民主政権に悪玉が紛れ込んだために自由恋愛を実行した民兵小隊長が殴り殺されたと。彼は農民を激励して、邪悪な勢力や封建的観念と戦わせるため、「小二黒結婚」で、悲劇を喜劇にしたて、勇気を持って、ありのままに矛盾を暴露した。人物描写も生き生きとして、呼べば飛び出してきそうなくらいであった。

 山葯蛋派は、大衆の芸術的嗜好や鑑賞的習慣を尊重し、作品の言語は簡潔で精錬され素朴、口語的で、大衆性をもっている。長期にわたる芸術的創作実践のなかで、山葯蛋派は次第に独特の審美的趣味を形成した。芸術表現上は、白描()の手法を運用し、描写を叙述のなかに融合させた。人物の動作性を重視し、諧謔的な喜劇の色彩を追求した。

 80年代以後、
馬烽、西戎ら山葯蛋派の主将たちが創作した多くの作品は、思想上、芸術上、新たな発展をとげ、突破口を開いた。が、この流派の基本的特色は引き継がれている。同時に、山西には韓石山韓文洲潘保安田東照王東満などの山葯蛋派の新鋭が登場してくる。彼らはまた独自に新しいアイデアをもっていて、昔の趙樹理を代表とする山葯蛋派の焼き直しとは違った存在である。これらの新しい山葯蛋派作家のなかに、新しい小説流派が孕まれているのである。

中国現代文学社団流派辞典上海書店1993.6)


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作成:青野繁治