Zhao Shuli 趙樹理


趙樹理小伝:

 1906年旧暦8月7日、山西省沁水県尉遅村に農家の子として生まれる。6人家族で家は比較的貧しいほうではあったが、祖父、父親共に読み書きができ、医学、占い、星象(星回り、星の明暗、位置を観察し、人の運命を予測する古代の思想)を勉強していた。父親は農業以外にも、柳の枝で編んだ家具を作り家計の足しにしていた。幼いころの超樹理はそんな祖父から読み書きを学んだのである。
 1916年、11歳になった超樹理は私塾に通い始め、約3年‘四書'を学ぶ。続いてすぐに、家から30里も離れた高級小学で学び、1923年当校を卒業。
 幼いころから地方劇や民間文芸を好み、8歳のころ劇の拍子木の打ち方を学ぶ。15歳で劇の楽団で指揮をとるようになる。たとえ15里も離れた遠い村で夜劇が開かれても、彼は見に行ったそうだ。
 彼が在学中、1925−27年の改革が起こった。1926年、国民革命軍によって北伐戦争が起こされる形勢になると、山西省の学生はこれとこうして軍閥打倒を叫び始めた。趙樹理もその一人であった。やがてこの革命は国共分裂によって失敗に終わる。山西省閻錫山は大規模な赤狩りを始めたのだが、趙樹理はそのあおりを受け捕らえられ、太原の監獄に送られた。そしてある期間収監された。釈放されてから戦争が始まるまで彼がどんな生活をしていたか、詳しいことは分からない。しばらくは太原で新聞社に雑文を打って暮らし、その後職を求めて開封へ行き、しかし当てが外れて太原に舞い戻り、二週間軍人のボーイを勤めた、というようなことが断片的に知られているだけである。要するにそういう放浪生活を送った後、最後に小学生の先生になったというのであるらしい。
 彼は太谷で教壇に立つ傍ら、小説を書き、また小型新聞を発行した。しかし小説のほうは、出版社のほうがその内容を嫌い、原稿を買ってくれなかったため中止された。そしてこの小説は日の目も見なかったが、彼はその後も農民向きの小説、快板(歌いもの)、寸劇の類を書きつづけた。
 戦争が始まったとき、趙樹理は故郷にいたが、彼はここで犠牲救国同盟会加わった。1938年には40日間区長を勤め、抗日自衛のための大衆動員、大衆組織などの仕事に当たった。そこで彼は2年間すごす。
 1941年以後、日本軍の攻撃が始まった。中共は反撃を準備すると同時に、日本軍の占領地域向けの小型新聞「中国人」を発行した。趙樹理はその副刊(付録)を編集することになった。外からの寄稿がなかったため、彼はさまざまな形式の文章を手がけなければならず、さらには、新聞全体の編集までも彼に委ねられた。そして、日本軍の襲撃を何とか切り抜けながら彼の新聞は生き続けた。
 1943年5月、明るい新しい秩序を打ち立てようとする社会の要請にこたえて、趙樹理は、「小二黒の結婚」を書いた。農村の青年の自由結婚を主題とした短編小説である。この作品は、大きな反響を呼び、太行区だけでもたちまち三、四万部発行され、発行部数において当時新華書店が出版した文学書の最高記録だったといわれている。
 同年10月、中編小説「李有才板話」を手がけた。ここでは減租減息が主題として取り上げられており、また、中国の伝統小説ないし語り物の手法がとりいれられている。この民話形式、あるいは民話的発想法とも言うべき手法は、もともと趙樹理のほとんどすべての作品に共通するいちじるしい特色で、彼の作品が中国の大衆に歓迎される大きな理由の一つがそこにある。
 彼は同じ年の冬、「ふたつの世界」と題する三幕劇を書いた。これは当時、「晋冀魯予辺区文芸小叢書」に収められたとのことであるが、一般にはまだ公開されていない。
 ついで翌1944年の春には、晋冀魯予辺区政府が広く農村に呼びかけて募集した素人の文学作品を一ヶ月にわたって審査し、また同じ年の冬には、太行区の「群英会」と「生産戦績展覧会」に出席して表彰された労働英雄たちに会い、二編の労働英雄伝を書いた。「厖如林」、「孟祥英」がそれである。
 その次の作品が「李家荘の変遷」である。これは1945年秋から書き始められた。1920年代末から抗日戦争終結直後にいたる20年近くの歴史を背景にして、山村の農民たちが無知から覚醒へ、覚醒から闘争へ成長してゆく過程が、躍動的に描かれているのである。「李家荘の変遷」が書かれてまもなく、抗日戦争の終結によって、上海が再び出版の中心地になった。そして戦時中の主な作品がここで続々と出版された。これがきっかけとなって、それまで華北部の一部でしか知られていなかった趙樹理の業績が全国的な注目を浴びることとなった。
 抗日戦争の終結後まもなく3年間にわたる革命戦争が起こった。この期間にも趙樹理は主に山西省にいたらしい。また1947年には、8ヶ月間土地改革の事業に従事し、その年の冬には郷里に帰って年越しをしている。1949年初め、北京が解放された時、華北解放区の作家たちが大勢ここへ移ったが、超樹理もその一人であった。そして同年7月、全国の作家・芸術家を召集して北京で開かれた「中華全国文学芸術工作者代表大会」には、北京・天津地區代表の一人として出席した。この大会によって作家・芸術の全国的組織である「中華全国文学芸術界連合会」が生まれ、次いで同年9月以降、「全国分連」の機関紙「文芸報」をはじめとして、文学雑誌や芸術諸部門の雑誌が続々と発刊された。超樹理は「全国分連」の常任委員に選ばれ、また大衆文学・芸術の専門誌「説説唱唱」の編集を受け持った。更に「人民文学」の編集にも参興している。
 彼の作品は、1年に短編ひとつという割合であり、量から見るとあまり活発な創作活動とは言えない。

作品集・単行本

『趙樹理 』 ,阿沁編 三聯書店 , 1994.
『文章入門』 老舎, 駿台社 , 1961.
『趙樹理文集』 工人出版社 , 1984.
『趙樹理文集』 ,工人出版社、 山西大学合編 工人出版社 , 1980.
『趙樹理文集』 ,工人出版社、 山西大学合編 工人出版社 , 1980.
『趙樹理文集』 ,工人出版社、 山西大学合編工人出版社 , 1980.
『趙樹理文集』 ,工人出版社、 山西大学合編工人出版社 , 1980.
『三里湾』 趙樹理原著,江風[他]改編中国戯劇出版社 , 1957.
『趙樹理研究専集』復旦大学中文系《趙樹理研究資料編輯組》編福建人民出版社 , 1981.
『三復集』 作家出版社 , 1962.
『李家荘的變遷』 新華書店 , 1950.
『靈泉洞,上部』 作家出版社 , 1959.
『趙樹理選集』 ,茅盾主編 開明書店 , 1951.
『趙樹理選集』 人民文学出版社 , 1959.
『三里湾』 通俗讀物出版社 , 1955.
『小二黒結婚,五場歌劇』 趙樹理[著]中国戯劇出版社 , 1957.


邦訳

『李有才板話(うたものがたり)』鹿地亘/譯 日本出版共同株式会社 1952
『結婚登記,他四篇』小野忍/譯 岩波書店 1953
『結婚登記』岩波書店 1953
『李家荘の変遷』島田政雄・三好一/譯 青木書店 1955
『趙樹理篇』小野忍/譯 河出書房 1956
『趙樹理選集』有田忠弘/訳註 江南書院 1956
『李家荘の変遷』小野忍/訳 岩波書店 1958
『中国現代文学選集 趙樹理集』駒田信二・岡崎俊夫・小野忍/訳 平凡社 1962.5.5

 

参考書

『中国現代文学の栄光と悲惨――超樹理評伝』釜屋修著 玉川出版


作成:鈴木雅代