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荷花淀派

かかでんは


解説

 1940年代より、河北省では、孫犂、康濯を代表とする作家たちによって形成された小説流派が発展し、五十年代には成熟して行った。彼らの小説は、素朴ですがすがしく、抒情的で、新しい生活の情趣に富み、内在的な美を含んでいる。

 孫犂は1938年に抗日戦争に参加し、晋察冀根拠地で働いた。1939年から、「刑蘭」「蘆花蕩」「荷花淀」「碑」「蔵」「光栄」「呉召兒」「小勝兒」「嘱咐」など一系列の短篇小説を創作した。そのうち、白洋淀の若い女性たちが遊撃隊を成立させる過程を描いた「荷花淀」が彼の短篇小説の代表作である。40年代には、滹沱河両岸の人民が党の指導下、抗日政権を打ち立て、生まれ変わりと解放を追求する姿を描いた長篇小説『風雲初記』、冀中の人民組織の互助生産、前線支援を描いた中篇小説『村歌』も書いている。これらの作品は、ほぼ彼の故郷である冀中平原の農村を背景とし、生き生きと抗日戦争と解放戦争時期における豊かで多彩な農村の戦闘生活を再現し、冀中平原の泥臭い雰囲気を濃厚に備えている。彼はさらに戦いのなかでの女性の成長過程と英雄的行動や大きな貢献を重点的に描き出し、一系列の聡明で、機知に富み、勇敢な農村女性の形象を創造した。作品は浪漫主義的息吹と楽観精神に満ち、プロットは生き生きと、言語は清新に、描写は迫真、心理描写は細やか、抒情味は濃く、詩情画意に富んでおり、「詩体小説」と呼ばれる。

 康濯は1938年、延安に行き革命に参加し、魯迅芸術学院文学系に入学して勉強した。抗日戦争初期には、晋察冀辺区で文芸工作に従事し、辺区の人民の抗日の生活と闘争を反映する短篇小説「蝋梅花」「災難的明天」「抽地」などを創作した。抗日戦争勝利後は、晋察冀辺区で、新聞や雑誌の編集を行い、実際工作に身を投じて、「初春」「工人飛虎」「我的兩家房東」などの短篇と石炭生産回復闘争を反映した長篇小説『黒石坡煤窯演義』を創作した。これらの作品は、農村生活を題材とし、農民の生活と精神的な様相を反映している。芸術風格上では、彼は孫犂とほぼ同じで、風格は清新、明朗、言語は素朴で生き生きしており、民族化、大衆化という特色を体現している。孫犂と康濯を代表格として、一つの文学流派の雛形が形成されることになる。

 新中国成立後、孫犂は前後して、『風雲初記』二、三集、『鉄木前傳』、『白洋淀紀事』等の作品を創作し、抒情性の濃厚な詩情画意にあふれる芸術的特色を、さらに一歩発展させた。茅盾は「孫犂には一貫する風格がある。『風雲初記』などの作品には、その発展の跡が表れている。その散文は抒情性に富み、その小説は章立てなどの構成に凝らないようでいながら、散漫にならない。彼は笑顔の従容とした態度で風雲変幻を描写する。そのよさは、興趣に富み、しかも軽薄に落ちないところにある。」(『反映社會主義躍進時代,推動社會主義時代的躍進』)と評価している。

 康濯は新中国成立後、短篇「我在郷下」「買牛記」「第一個新年」「前進」「正月新春」「春種秋収」および中篇「水滴石穿」、長篇「東方紅」などの作品を創作し、その清新、明朗な風格を一層発展させた。

 こうして孫犂、康濯を代表とする荷花淀派は、40年代の雛形から発展をとげ、50年代についに流派を形成したのである。

(『中国現代文学社団流派辞典』上海書店1993.6 )

 荷花淀派はかつて「山薬蛋派」とならび称せられた。当代文学において最も早くあらわれ、かつ文学流派として認められていた(人によっては真の意味ではいまだ流派を形成せず雛形にすぎない、とみなされるが)ものである。 リーダーは、優秀な短篇小説「荷花淀」を書いた著名作家孫犂で、その作品には独特の風采と清新な味わいが備わっている。早くは建国の初め、孫犂は『天津日報』文藝週刊を主宰していたとき、文学流派を打ち立てる志をもっていた。 彼は優秀な新人を育てることに注意し、風格の近い作者、たとえば劉紹棠韓映山従維煕冉淮舟房樹民呉夢起蓽路などを、刊行物の周囲に団結させた。

  荷花淀派は農村の現実生活を表現するのを主とし、白洋淀一帯の自然風景、風俗人情および人民の生活と闘争を描くのが得意であった。その作品は詩情画意に満ち、散文と詩の融合であるかのようである。事件を述べることに重きをおくより、人物の個性や人物関係の描写に心を集中させ、普通の人の運命を表現するのが、また人物の豊かな感情世界と複雑な性格を表現するのが得意であった。「白洋淀紀事」「鉄木傳」「運河灘上」が彼らの代表作である。

 近年来、社会生活に巨大な変化がおきたことにより、文学の風格も変化を起こしている。本来の荷花淀派に分化が起こっている。例えば劉紹棠は「郷土文学」の大旗を掲げ、自分の故郷である、京東北運河両岸の農村を背景とし、冀東の風情を色濃く帯びた田園牧歌式の生活を描いているが、これは荷花淀派の一つの傍流として発展する可能性が高い。従維煕もこの流派から遠くはずれた最初の表現手法によって、「大壁文学」を開拓した。荷花淀派は分化後、新しい文学流派を形成する可能性もあるが、荷花淀派の創作はいまだ始まったばかりであると考える人もいる。鉄凝ら後続の世代がこの流派に新しい血を注ぎ込んだというのである。
 

(『中国現当代文学辞典』遼寧教育出版社 1989)



作成:青野繁治