サントリー学芸賞受賞!!!!! 『色男の研究』(角川学芸出版 2007年)がサントリー学芸賞(風俗・社会部門)を受賞した。指導・助言してくださった先生がた、同僚、学姉・学兄のみなさまにお礼もうしあげる。受賞の言葉はサントリー文化財団に掲載されています。http://www.suntory.co.jp/news/2007/9957.html

(次のタイトルの文章は、いずれ、タイトル・ページでも予告した、個人ホーム・ページに転載予定である)
品位ある批評を――小谷野くんに答えて

子供の自慰に絶頂感はあるか?(この話は、下に収めた「チンチンガチャガチャ」の続編である。)
うちの息子は四歳だが、マスタベーションが大好きである。もうかれこれ二、三年やっていると思う。「チンチン・ガチャガチャする」とか言って、あおむけになりながら、手であそこを押さえて、「ピストン運動」している。幼児性欲はすでにフロイトによって確立されていて、いまさら、子供が自慰をしたからといって、どうということはないのだが、一つ発見があった。四歳の子供のことだから、やはり射精はない。そこで、一体、どうやって終わるのかということが問題になる。ぼくはずっと、終了感はない、したがって、猿の自慰のようにえんえんと行為を続け(という話だ)、疲れたら終わるということだろうと思っていた。ところが、先日、彼が話してくれたところによると、自慰をしていると、最終的に「オチンチンがくすぐったくなる」、そして、これが気持ちいいと言うのだ。どうも子供は子供なりに、オルガスムがあるらしい。これは、射精なしに絶頂に達するという可能性を示唆していて、男性学の見地からも、興味深い事実だ。いずれにせよ、ぼくたちは、まだ自慰の仕組みとかほんとうによく分かっていないような気がする。なんらかの禁忌が働いているに違いない。子供のオナニーもその一つだ。性科学者よ、もっといろいろ調べてくれ。(5.29.2000)

先日、息子が今年、大はやりのインフルエンザにかかりました。一週間ほど高熱が続いて、せき鼻水がありました。それで薬をもらってきたのですが、これが苦いので嫌がって飲まない。それでジェリーと二人で無理やり口をこじ開けて飲ますという非人道的をしました。ぼくが口を力任せにこじ開けるあいだに、ジェリーが薬を口に流し込む、というかふりかける(粉薬なので)という寸法です。ところが、これをやるのにジェリーはとても不器用で息子の口の回りを粉だらけにしてしまいました。それで、文句を言ったらけんかになったのですが、その過程で分かったことは、驚くべきことにアメリカ人は粉薬を飲まない。だから、あの袋のはしをあけてサッサッという要領が(やったことがないので)分からないのです。アメリカでは薬は錠剤・カプセルと決まっているようです。いかにもアメリカだなあと思うとともに、われわれは資本主義の発展によって、こうした近代的なものは世界中すべて同規格と思いがちですが、文化差は思わぬところに潜んでいるものだと認識を新たにしました。(3.23.1999)

ぼくの名前のこと
(以下の5つの文章は、1999年に共同通信から隔月で配信されたものである)

 なるほどヨコタ村上というのは妙な名字だ。はじめての人には必ず由来を尋ねられる。なんでこんな変なことになったんだとくってかかる人もいる。コンピュータのデータ入力値に収まらないから別の名前にしてくれと取引先から言われたこともある。余計なお世話である。それはさておき由来だが、これは結合姓と呼ばれるものなのだ。ぼくの「旧姓」は村上で、カミさんは日系アメリカ人ヨコタであり、米国で結婚してヨコタ=ムラカミを新たな名字としたのである。かの地ではこうしたことが許される。帰国後、家裁に申し立てをしたら、あっさり改姓を認められてしまった。だから、これは戸籍上の姓である。奇を衒った、と思われるかも知れないが、昔の大岡越前之守なんていうのも一種の複合姓だ。福沢諭吉は、横田と村上が結婚して横村なり田上なり新しい組み合わせの姓を作るというアイデアを持っていたから、こっちの方がかっとんでいる。さて、こうしたことが夫婦別姓問題の解決策になるのか逆行するのかというとよく分からない。まあ、さまざまな試みがあってもいいのだろう。
この名字は長くて不便だけれども、愉快なこともある。ぼくは国立大学に勤務している。そして、はっきり口に出されはしなかったものの、「通称」の村上を使わせてもらえませんでしょうかねえ、という気配がずっとあったことだ。で、ぼくは、だめですよ、戸籍制度を守ってくださいという顔をして、内心ほくそえむのである。

無題

 仕事柄、外国旅行することが多いのだが、最近、ありがたく思うのは、電化製品で二百ボルトの電圧に対応した製品が増えたことである。日本で使っている器具が、ヨーロッパとかでそのまま使える。やはり情報家電にこうした製品が多いようである。かつて北欧旅行中に変圧器が壊れ、さんざん探し回ったあげく広辞苑ほどの大きさのものしか見つからなかったときには、がっくり来たものだ。これがつい十年ほど前の話だから、電化製品については国境の破壊が進んでいる。
 それからすると近年のDVDをめぐる国際的なやり取りは、まったく時代の流れに棹さしている。ハリウッドの圧力に屈してリージョナル・コードなるものが作られ、アメリカで売られているDVDは日本で購入した機械では再生できないことになってしまった。ハリウッド映画が日本で封切られる前に、米国で買ったDVDが流通しては困るというのがアメリカの配給会社の思惑だったらしいが、消費者にとっては不便な話だ。今やショッピングはインターネットなどを介して、世界中からカタログで買う時代なのだ。ソニーのプレステで、外国のDVDも再生されてしまう「不具合」が出たため回収中という事件が報道されていたが、ぼくに言わせればこれは「不具合」ではなくて「好具合」である。これを「不具合」と書かなければならないところに、われわれが新しい、グローバルな情報社会に移行するための障害がまだ、透けて見えるのである。

パパ、出ちゃった

 うちは共働きで、カミさんがアメリカ人ということもあるのか、家事は完全分業である。連れ合いが仕事で遅いときなど、まだ小さい子供と二人で買い物したり外食したりすることも多い。そんなとき大変なのは(おこな話で恐縮だが)しもの世話である。
 というのも、日本の商店やレストランはまだまだ、男が子供のおむつを替えたりする可能性というのを想定していないのである。で、替える場所がない。替えの下着とかを置く場所もない。床に置こうとすると、水でびちゃびちゃだったり、汚物で汚れていたり。その上、自分の子供の方が下痢でもしている日には、狭い個室でのふん闘努力は細心の注意を要する大事業になる。はっきり言って、神経がマヒしてきて、うんちがちょっと手とか服とかについても、全然、動じなくなる。そのほか、笑い話じゃないが、狭い洗面台の片隅に子供を横にしていたら、あり地獄さながらに流しに子供が転がっていっちゃったりとか、窓のさんに立たせて見上げるようにお尻を拭いていたら何かが降ってきたとか、もう涙なしには聞かれない話ばかりである。
 だが、こんな話を人にしても、たいていはあまり同情してもらえない。名前も妙だけど、男のくせに子供のうんちの始末までする珍しい奴と思われるだけである。レストランの経営者とかも、おそらくはそんな風に考えていて、トイレの改良に取り組んでくれないのだろう。
 しかし、個人的な経験から言うと、こうした「妙な男」は、結構、多いんじゃないかと思える。トイレで同じように子供の汚物と格闘している人はちょくちょく見かけるのである。自分もそれをするから、そうした人にはすぐに目が行き、やあ、ご同輩、がんばってますねとエールを送りたくなる。子供連れでかち合うと、お互い苦笑いである。
 だから、経営者の人に言いたい。男がそれをしないから、男性トイレのおむつ台が増えないという議論もあるようだが、発想を変えてくれ。男のトイレでも気持ちよく子供の世話ができるようにしてくれ。そうすれば子連れのパパは、きっと喜んで何度も来てくれて、商売繁盛間違いないですよ、と。

チンチン、ガチャガチャ

 うちの息子は四才にして自慰が大好きである。ズボンの上から触るだけなのだが、「チンチン、ガチャガチャする」と称している。罪悪感がないので保育所でも平気でやる。面談のときにその話が出た。おたくの息子さんはよくあそこをいじりますというので、家でもやってます、ハハハと答えたら、びっくりされてしまった。
 問題行動をしてますというつもりだったらしい。困った保母さんは、家庭でのストレスのあらわれではないかと心配しているとか、とってつけたような理屈をならべはじめる。ぼくに言わせれば、たいていの人は性欲がたまるから自慰をするので、ストレス解消のためにするのではない。たまる性欲を発散せねば、逆にストレスが高じるだろう。
 で、大いにやらせてくださいと言っておいたのだが、世の中、そうはいかないようだ。というのも、しばらくして、息子が家でひととおりいじったあと、心配そうな顔をして、「でもガチャガチャするとチンチンくさるって先生言ってたよ」と訴えるのである。何がなんでもやめさせたいのだろうが、誤った知識で子供に恐怖心を植えつけるというやり方は考えものだ。せめて「人前でチンチンいじっちゃダーメダーメ」とか笑いとばしてほしいものである。
 高校生の半数に性的体験があるという記事が少し前に出て人心を騒がせたようだが、大人の性モラルはいっこうに解放されてなくて、どんどん青少年に取り残されていっている。高校生がセックス? 幼稚園児がオナニー? おばさんおじさんたちよ、いいじゃないの。きょうび、困ったことはほかにいっぱいあるんだから。

「近代日本文学・比較文学研究には幻影が出没している。それは形式主義の幻影だ。」―畑有三さんの批判に「答える」
(この文章は、畑有三氏が『専修国文』第62号に発表した論文に対する回答である。他に適当な発表場所がなかったので、ここに掲げる。) 

 『専修国文』第六二号に畑有三さんの「共同著述の執筆者および編者の、モラルと責任について」という「論文」が掲載された。これは直接的に立命館大学の中川成美さん(という編者)と私、大阪大学のヨコタ村上孝之(という執筆者)のモラルを問う内容になっている。学術論文というものは、何らかの一般性を備えていなければならない。編者そして執筆者の学術出版上のモラルが、ある学界全体として低下していて、その構造上の、あるいは歴史的な理由はしかじかであるという分析ならばよい。だが、中川およびヨコタ村上という、「普通」のモラルを欠いた人間が、これこれの行為をしたという批判は、仮にそれが事実として証明されようと、されまいと、学術的な文章としては価値がない。中川なりヨコタ村上なりという個人が転職して所与の学界から消えうせようと失せまいと、問題の解決にはならない。
 したがって、私がここで行おうとしているのは、いや、中川・ヨコタ村上はそんなに悪い連中じゃありませんよという反論でもなければ、お説の通りです、自己批判しますという反省文でもない。それでは畑さんの文章と同じ言説の中に自らを位置づけることになってしまうから。これは、畑さんの論文に「答え」ながら、近代日本文学研究、比較文学的研究、あるいはひろく学術的言説一般に内包されている問題構制を明らかにしようという試みである。
 さて、畑さんの文章は、中川成美ほか編の『近代日本文学を学ぶ人のために』出版に際して、執筆者の一人、ヨコタ村上孝之という人間が、執筆要項に定めれた「だ、である調」を用いるというルールに違反した原稿を書いたのに、これを編者がそのまま出版し、それに不快を感じた共同執筆者の一人である畑さんが抗議をしたのに納得のいく対応をしてもらえなかったという経緯を説明したものである。
 一般的に言って、学術図書あるいは論文集の編者は、図書の構成を決め、編集方針を決め(あるいは場合によって変更し)、執筆者を選定し、原稿の内容を検閲し、必要ならば書き直しを求め、極端な場合にはその原稿を破棄して、別な執筆者に依頼するというような権限を持っていると私は考える。そして、上記の権限内の案件については、共同執筆者にいちいち諮る必要がない。編者にとっての越権行為は、論文の内容を無断で改竄することだけである。したがって、編者は「ルール違反稿」が出現したならば、書き直しを要求するか、例外として認めるか、自らの見識に基づいて裁量するというだけの話である。
 このことは私の独断でなく、人文科学、自然科学を問わず、学術出版では共有される基本的認識だと思われる。もっとも、近代日本文学研究の世界ではそうでないのかも知れない。私は部外者なのでそのことはよく分からない。
 ちなみに、アメリカとの比較でいえば、日本では編者の権威は今のままでもかなり小さなものになっている。アメリカでは上述の編者の職権に加えて、編者が執筆者に論文の構成や議論の性格にまで、前もって指示を出すことはまれではない。蛇足だが、日米の編者の権威の違いは、野球の審判と相撲の行司のそれの違いに類似していて、比較文化的に興味がある。もちろん、私は、共著の編集方針はすべからく、アメリカにならわなければならないと言いたいわけではない。(学界を含め)それぞれの社会に、それぞれの「モラル」があるだけである。だが、それでも、上述の職権程度は日本でも認められていると考える。
 そして、職「権」は逆に言えば責任ということである。最終的にできあがった書物の全体としての出来に責任を持つのは編者であって、個々の執筆者ではない。したがって、畑さんは編集のあり方に疑念があったとしたら、書評を著して、完成品としてのそれを批判すればいいだけのことである。
 ここですでに畑さんはでき上がったテキストと、それを産出した「主体」であるところの執筆者および編者(の人格、モラル等)を混同しているのである。テキストと著者のレベルの混同は、畑さんの議論の基調音をなしている。たとえば、畑さんは私の小論に対する批判の一つで次のようなことを書いている。そこで畑さんは、私が「東京外国語学校(現在の東京外国語大学)」と書いているのをとらえ、これは私が、明治六年に発足し二葉亭も学んだ東京外国語学校が明治十八年には廃止され、露清学科は高等商業学校に合併され、のちに明治三十二年に東京外国語学校として改めて発足した、すなわち二葉亭が学んだ東京外国語学校は「旧外語」であって「現在の東京外国語大学」ではないという事実を知らないのだと断定する。そして、その事実を知らない以上、二葉亭研究にとって常識である、「旧外語」蔵書が現在、一橋大学の所蔵になっていることも知らないであろうと書いている。
 まず言えば、二葉亭研究者に広く用いられている『東京外国語学校沿革』は、「旧外語」を現在の東京外国語学校の前身として連続的にとらえている。したがってこの問題は解釈によるものだと言えよう。しかし、仮に畑さんの解釈が正しいものだとして、また、私が「旧外語」蔵書がどのようなもので、現在、それが一橋大学図書館に収められていることを知らないとしても、そのことは私の議論の有効性にまったく関係がない。これは『近代日本文学を学ぶ人のために』に収録された「比較文学をやめるための比較文学案内」を見ていただけばよいが、そこでの私の議論は、一橋大学の旧外語蔵書の内容によって左右されるような性質のものではないのである。
 したがって、畑さんはここでもテキストとテキストを生み出す「主体」の問題を混同しているのである。つまり、畑さんは、私の議論が、一橋大学の旧外語蔵書の中の、具体的にこれこれの事実についての認識を欠いてために、こうした矛盾なり限界なりが生じていると言っているのではない。畑さんは、いやしくも二葉亭四迷研究者であれば旧外語蔵書のことを知り、実見しているべきである、それをしていないヨコタ村上という人間は―ヨコタ村上の書いた「比較文学をやめるための比較文学案内」という文章は、ではない―そもそも信用できないと言っているのである。しかも、その判断の根拠が、「東京外国語学校(現在の東京外国語大学)」という記述だというのだ。機械的な形式主義であると言わざるをえない。
 この形式主義の問題についてはあとで立ち返るとして、今、ここで一点だけ、近代日本文学研究者にとって役立つかも知れない情報を書き留めておくことにしよう。私は十五年ほど前、一橋大学の板内(ばんない)先生に案内されて、「旧外語」の図書を調べたことがある。ベリンスキーなどの文学評論についてはすでに北岡誠司さんの重要な論文があるが、旧外語の蔵書は多岐にわたっている。一ツ橋大学図書館刊行のThe Monthly Bulletin of the Hitotsubashi University Libraryの一九五九年九月の特別号が、一九〇二年までに受け入れた図書のカタログとなっていて、旧外語の蔵書にあたるのだが、実はこのカタログに掲載されていない図書が多数存在しているのである。私は何日かかけてこれを調べ、北岡さんが上記の論文で指摘しているのと同じような、鉛筆での下線がいくつかの本から見つかったが、書き込みのようなものを見当たらず、この調査はとくに二葉亭研究で興味ある新発見にはつながらなかった。ただ、私はそのとき、カタログにもれている図書のタイトルをリストにしており、現在でも保管している。関心のある方は連絡していただければお見せする。
 さて、私は「比較文学をやめるための比較文学案内」の中で次のように書いた。「日本近代文学を研究する人たちの中でも、近代文学会に所属する集団と、比較文学会に所属する集団は、ほぼ交わっていないし、その拠ってたつ伝統の違いによって学問的な見方は自ずと限定されてくるのです(その幸福な―あるいは不幸な―例外の一人が、本書の編者の一人である中川成美さんです)。」畑さんはこの文章を引用して、「『中川成美さん』がなぜ『例外の一人』なのか理由を書かなければ、出す意味がない。理由がないかぎり読者には、ヨコタ村上孝之という執筆者が、自分を執筆者候補に推挙してくれたであろう『中川成美さん』に対して、有り難うございましたとお礼を言っているという以上のことは、わからないではないか。」(五十三頁)と批判している。私は『近代文学を学ぶ人のために』の読者が「白痴」ではないと思っているから、私の文章を読んで、「中川成美さん」が「例外の一人」である理由が、近代文学会と比較文学会の両方に所属している(したがって、両方の方法を同時に享受している、あるいは引き裂かれている)という意味で書いていることを理解しない人はいないと信じる。
 ちなみに、これは統計的に調べたわけではないが、今回の一件をきっかけにいろいろ聞いてまわった経験から言うと、近代文学会と比較文学会は私の最初の予想以上に集団として交わっていないようである。比較文学会の会員はほとんど、諸外国文学会とだけダブル・メンバーシップを持っているらしい。畑さんは先の批判に続けて、私が「中川褒め」をしたと書いている。私は脱稿の時点において、中川さんが幸福な例外なのか、不幸な例外なのか、正直、分からなかったが、畑さんの「論文」を読んで、決定的に不幸な例外なのだと確信するようになった。二つの学会に所属し、二つの方法を持つことが、豊かさではなく、貧しさにつながるような状況があるとしたら、それは悲しいことだと言わざるをえない。
 今の例でも分かるように、畑さんは私の文章をよく理解していないように思える。そのはっきりした表れが、「この人[ヨコタ村上]が両方の本[『比較文学を学ぶ人のために』と『近代文学を学ぶ人のために』]に書いた論文中で絶賛してやまない『二葉亭四迷伝』の著者中村光夫」という言い回しである。私は『比較文学を学ぶ人のために』ででも、『日本近代文学を学ぶ人のために』ででも、中村の「近代主義」と「比較文学的な方法」に潜む、コロニアルな発想を徹底的に批判したつもりである。(なお、畑さんは、私が比較文学という高所から近代文学研究を軽視した態度を取っていると感じておられるようだが、私は「両方の本に書いた論文」でも、また、『性のプロトコル―欲望はどこからくるのか』[新曜社 一九九七年]やDon Juan East/West: On the Problematics of Comparative Literature[Albany, NY: SUNY Pr., 1998]でも、比較文学の解体を唱えている。そのことで、私が日本比較文学会を退会すべきだと主張する会員もいる。蛇足ながら付け加えておく。) 結局、どうも畑さんには私の両論文の内容がまったく分からなかったように思える。そして、そのことと畑さんの形式主義―「です・ます」体で書いたことはルール違反だから、とにかく悪いという立場―と表裏一体なのだろう。畑さんは私の取った「です・ます調」がこの小論の論旨にとって適切なものだったかを論ぜず、もっぱら形式的・外面的な基準で考えている。いわく、「ほかの論文で『である調』を使っているから、『である調』でも書けるのだろう。」いわく、「関係の薄い集団に向けて書かれたものだから手を抜いたのだろう。」論理に対する判断停止は、形式や他のレベルの事象にまなざしを向け替えることによって自ずから修復されるという、おそらくは学問的言説における一般的な問題がここに観察されるのである。
 『近代日本文学を学ぶ人のために』の編集趣旨には、「日本近代文学を一つの回路に設定して、そこから調査・研究の方法のみならず、その思考を具体的に叙述して社会化していくかという問題までをここで概観する。それは個別的な対象の学習から、社会的に機能する思考の創造へと昇華するためには、如何なる教育方法が可能であろうか、そこに関与する教員は学生の柔軟な思考力をどう啓発し、また自身に回収するかという問題である」とあった。このことには形式主義に陥らず、柔軟な頭脳で個々の事例に対応し、それを高い次元の思惟へとつなげていくことへの誘いが含まれていたはずである。この誘いは畑さんには通じなかったようである。だが、いずれにせよ、私の小論をめぐる一連のいきさつは、形式主義の諸問題を明らかにし、個別性から社会性への昇華の道筋を示した点において、意味のあるものであったと言えるかも知れない。この形式主義の幻影がいつか消えてなくなる日のために。

九十ドルのなぞ―モスクワ市民の帳尻の合わせ方
(この文章は、1997年にモスクワ留学した際の観察を本にしようと思って書き始めたものだが、未完に終わっている。すでに旧聞[ソ連崩壊後の混乱した経済状況を主に描いた]だし、これ以上、書き足すつもりもなく、未完のまま、ここに掲載しておく。)

目次
はじめに
第一章 老いた年金生活者の苦悩
第二章 司書レーナの場合
第三章 ニュー・リッチの優雅な生活
第四章 警官はおいしい
第五章 「(軍歌)」
おわりに

はじめに

 私は一九九七年四月から九月まで日本学術振興会の特定国派遣(長期)[このプログラムは一九八七年現在、ロシア科学アカデミのー財政上の困難のため一時、停止されている]プログラムのもとで、ロシアに滞在した。ロシアの銀行はほとんど信用できないので、長期滞在のための生活費は、銀行の口座に日本から振り込むということはできない。持参するのである。それ以前に、ほぼ一年に一度、ロシアを訪問していた私は、この程度なら十分足りるだろうと思って、ほぼ月二十万円相当の現金とトラベラーズ・チェックを持って行った[実際には、振興会からはこれを上回る生活費を支給されていた。この点に関しては、あとに述べるように、振興会の判断の方が現実的といわざるを得ない]。つまり、半年間の滞在のために百二十万円ほどを用意したのである。だが、着いて十日ほどのあいだに、二千二百ドル、すなわち二十五万円ほどを使っていることに気がついた。もっともこの中には後述するようにアパートの敷金(千ドル)や、その他の無駄な出費があれこれ入っていたのだが、それにしても十日で十万円以上のお金を使っている。これでは、月二十万円で生活するという予定が狂って、滞在の終わりには財政的に破綻する。こんな危機感から、私は支出状況を把握するために家計簿をつけることにした。二葉亭四迷も朝日新聞社の特派員として明治年にペテルブルクに滞在したときに、ことこまかな歳出記録をつけている。つぎにあげるのはその一部である。

 さて、私のある日の家計簿はつぎのようであった。
四月十六日 地下鉄運賃千五百ルーブル×2=三千ルーブル(七十円)、アイスクリーム二千八百ルーブル(六十五円)、玉ねぎ二千ルーブル(四十七円)、ういきょう千五百ルーブル(三十五円)、国立図書館ブフェットでの昼食(サンドイッチ、サラダ、コーヒー)一万六千六百ルーブル(三百八十六円)、ビール五千五百ルーブル×2(二百五十五円)、石鹸二千八百ルーブル(六十五円)。総計六万三千七百ルーブル(千四百八十一円)。

 この頃のルーブルの換算レートは売りで四十三、買いで四十六くらいというのが、町中で見た数字だった。もっとも、円はモスクワでは一般的ではなく、円をいったんドルに直して、それをまたルーブルに替えた方がレートはいいようだったが、今はとりあえず、一円=四十三ルーブルでものを考えることにしよう。

 地下鉄は均一料金で、市の中心部から十五分ほどのところに住んでいた私は、毎日、往復二回は必ず地下鉄を使った。運賃はつい一年前には二百五十ルーブルだったから、その値上がり率はものすごいものだが、それでも日本円にして三十五円であるから、安いものである。

 野菜類そのほか、みんな目方で買うのは苦労した。前から、ウオッカを買うのに百グラムとか、五十グラムとかいうのはなじみだったが、生活してみて、野菜、チーズなどみんな重量で買うのには閉口した[アメリカのスーパーでも大体こうだが、あらかじめ自分で測って買う仕掛けになっている。ロシアでは、口頭で売り子に何グラムと言わなければならない]。バナナ一キロ七千ルーブルと書いてあっても、それがどの程度の分量なのか見当もつかない。ままよ、というので、そこにある束をくれと言うと、ちょうど一キロだというようなことになる。玉ねぎ二千ルーブルというのは小三個だったと記憶する。じゃがいもや玉ねぎは安かった。

 ういきょうはdillのことで、生食する。そのほか、ありとあらゆる料理にちらしたりする必需品である。一束でたいした分量ではないが、必ずいるので毎日、買う。これは街角に立って、おそらくは自分で栽培したものを売っているおばちゃんから買うのである[写真 街角の物売りたち]。この方がスーパーとかで買うより、安い。おもしろいことにこういうおばちゃんはスーパーの真ん前とかに立って商売している。一般に行商たちは売るべきものがある店の前で商売する。実に合理的なのだが、日本ならば経営妨害といことで問題になるだろう。そうならないところがこの国のおおらかなところで、店屋の方では、街角であやしげなものを買いたいなら買いなさい、ちゃんとしたものを買いたいならこちらで買いなさいと割り切っているらしいのだ。

 国立図書館は食堂は修理で閉鎖になって、立食ブフェットしか存在しない。したがって、これも別に贅沢をしているわけではない。ビールはミラーやベックなど輸入物も自由に買える状況だったが、ロシアのバルチカというビールをたいてい買った。もっと安い国産のビールもあったが、あまりおいしくない。ビールは地下鉄の駅前などに並んでいる、キオスク風の屋台で買う[写真 タバーク]。おじさんたちは、このビールは新鮮だろうなと聞きながら買うが、売る方はいつも、「とても新鮮」と答えるのであまり意味はない。日付を見るとだいたい生産後一、二か月のものが多く、新鮮とは言えないが、とんでもなく古くもないようだった。だが、こういうところで買うウオッカなどはまがい物が多いと聞いていたので買わない。希釈エチル・アルコールを飲まされて目がつぶれてはかなわない。屋台の値段は場所によってまちまちで、中心地では高い。私の住んでいた町とかでは少し安いのだが、地下鉄の駅から遠いところではさらに安いのである。私は安いビールを求めて、毎日、せっせと歩いた。ちなみに私がいつも飲んでいたバルチク第六番(黒ビールでこいつはうまい)の値段の格差は、中央郵便局近くの屋台で七千五百ルーブル、最寄りの駅前で六千五百ルーブル、アパートの近くの商店街の屋台で五千六百ルーブルであった。味はみんな同じに思えたが、さて。
 石鹸は輸入品を買った。国産だと二千ルーブルくらいのものもあった。これも街角の行商から買う。ダンボール箱から取り出された石鹸は埃をかぶっていて、いったい、いつどこから仕入れてきたのだろうと心配になるが、古くても腐るものでもあるまい。

 さて、こうしてこの日は六万三千七百ルーブル、すなわち、千四百八十円ほどを使ったわけである。これはもうほとんどきりきりの生活である。確かにビールは余分かも知れない。しかし、ビールを飲まなくてもジュースを買えば八千ルーブル、牛乳を飲めば四千二百ルーブルである。国立図書館での昼食も、サンドイッチ、サラダ、コーヒーと言うとしゃれたものに聞こえるが、実際はそんなものではではない。ロシア人の言うところのサンドイッチとは、フランス・パンをスライスしたものにチーズかサラミがのっただけのものであり、サラダというのも、明らかに前の日の残りと思われる刻みキャベツのことである。コーヒーは強烈な出涸らしで、私はある段階から紅茶しか頼まなくなった。しかも、その方が安いのである。だが、ロシア人にとって、このコーヒーという新しい食習慣は魅力的なものであるらしく、みんながこぞって注文する。
 この質素な食事でさえ、サンドイッチ持参という人も見かけたので、そうすればもう少し節約できるのだろう。アイスクリームなんか食べるなとお思いかも知れないが、モスクワっ子はアイスクリームが大好きで、真冬でもみんながほうばりながら歩いている。ちなみにこの日も氷点下の気温だった。これは「普通の」出費なのだ。

 ほかの日の家計簿もほぼ同じような内容であった。で、結論としては、一日十ドル(一九九七年四月現在千二百五十円)以下で生活するのは、どんなに切り詰めても不可能だということになった。そうすると、月三百ドル、アパートの家賃が五百ドルで、そのほかに本を買ったり、コンサートに行ったり、レストランで食事をしたりと余分な出費もあるだろうし、国際電話代なども払わなければならないということで、まあ、千何百ドルか、つまり十五万円以上はやはりかかる。そうすると、最初に持参した金額はやはりぎりぎりのもので、節約生活をしなければならにということが分かったのである。

 こうして、モスクワはもはや安上がりの町ではないということをあらためて実感したわけであるが、さて、そこで大きな疑問が起こってきたのである。私はモスクワ市民の平均月収が二百ドル程度と聞いていた。ところが、私がモスクワ市民と同じように暮らして、どんなに節約しても月三百ドルほどのお金は生活していく上の最低限のお金としてどうしても必要なのである。そうすると百ドルほど計算が合わなくなる。私の知り合いの大学院生で、ちょうど同じ時期に間借りをしていた学生の大家さんは、月六十ドル相当の年金で生活していた。この学生は大家に月百五十ドル、賃貸料として払っていた。そうすると大家さんの月の収入は二百十ドルである。それでも私の理論から言って、彼女は月九十ドル(円)の赤字になるはずである。
 私は経済学者ではない。私のモスクワでの研究課題も言語・文化理論研究であって、モスクワ市民の生活の実態を調査したわけではない。ただ、私は上のような状況からモスクワの物価、そして生活のあり方に疑問を抱き、それを私の限られた交際の範囲から解いてみようと思ったのである。私は突撃精神豊かなジャーナリストではないから、私の対象はごくごく限られたものである。また、私の調査は、経済学者がさまざまな統計や理論から説明することからは全然、はずれているかも知れない。だが、少なくとも私の知っているあの大家さん、そして私の友人のあの人が、どうやって家計の帳尻を合わせているのか、そのことに限って言えば、私の以下の記述は真実なのである。そのような限定された真実を五例集めてみたのが、本書である。

第一章

 彼女は病気で、そのため週に二度、政府派遣のヘルパーが来て、掃除と買い物をしてくれる。このへんは、まだ、社会主義時代の名残というか、医療無料という国策が廃止されたあとも、なお国民生活を支援している部分ではあるのだ。
 だが、ヘルパーが来てくれるからと言って、ヘルパーの財布から買い物できるわけではない。帳尻は別な形で合わせなければならないのだ。

第二章 司書レーナの場合
 日本の国会図書館に当たる国立図書館(旧レーニン図書館)が大混雑している。日本の国会図書館もいつも混んではいるがその比ではない。午後になると入り口のホールは入館を待つ人でありのはい出るすきまもなくなる[写真 入館待ちをする人の列]。というのも、ロシア人はどこかに入るときには必ずオーバーと荷物はクロークに預けるので、ここではクロークで預かれるだけの数の人間しか入館させないからである。われわれ研究者は特別閲覧室というところを使うことができ、そこの利用者はクロークの順番待ちをしないでいい、つまり、割り込んでいいことになっているので困らないのだが、恨めしげに見る人々の視線が痛い。
 こんな状況になっているのは、一つは開館時間が短縮されたからである。以前は、毎日、朝の九時から夜の十時まで開いていて(日曜日は夜九時閉館)、かつては私も暗くなるまでここで勉強して帰ったものだが、一九九七年四月現在で開館時間は月・火・木・土は午前九時から午後六時、水・金は正午から午後八時、日曜は閉館となっている。
 だが、国立図書館の混雑はそのせいだけではない。ほかの図書館の閉館が相次いでいるかららしい。どこの国でも財政困難におちいると教育と福祉から削っていくものだが、ロシアも例外ではない。文化省は相次ぐ経費削減を行っており、図書館の閉鎖やそこで働く人たちの賃金カットが無法に行われている。国立図書館の開館時間の短縮も、もちろん、その一環である。
 私の知り合いの司書レーナは、幸い、おそらく最後まで閉鎖されることなどない、国立図書館勤務である。だが、彼女の前に勤めていた図書館では、突然、三十パーセントの賃金カットが文化省より通告されたという。この通告は

第三章 ニュー・リッチの優雅な生活

 さて、ここで帳尻合わせに困っていない人たちのことも紹介しよう。いわゆるNovyi russkii(New Russian)と言われるニュー・リッチたちである。彼らは市場経済原理、資本主義経済の導入の波にうまくのって、ここ十年足らずの間に財をなした。
 彼らの「成り上がり」ぶりは、極端なものである。ここで私の十年ごしの友人、パーシャ(パーベル)のことを紹介しようと思う。彼とは一九九〇年の夏に、モスクワのブフェットで知り合った。たまたま同じテーブルに相席し、声をかけてきた彼に、「こんなお茶よりもっと大人の飲み物を飲みたいね」と言ったのがきっかけであった。「はじめに」で書いたように、今でこそ、酒は屋台やスーパーで簡単に買えるが、当時はウオッカやコニャックは貴重品で、ホテルのレストランのウェイターにそでの下をつかませて分けてもらうというようなことをして手に入れるのが普通だった。
 彼はそのころ、キルギス共和国在住で[地図 ロシアの地方共和国]、モスクワにビジネスで来ていた。なぜか意気投合し、遅れて来た私の家族や彼の家族ともに、深い付き合いをするようになった。彼はやはり外国人と知り合いになって、ビジネス・マンとして雄飛しようという野心があったのだろう。一九九〇年の段階では、まだロシア市民と外国人の交際は公式には禁じられており、外国人が泊まるホテルにはロシア人は入ることができず、ドア・ボーイに追い返されるという時代だった。彼はしきりに、キルギスでは木材、大理石、金属などが採れるので、これをおまえが日本に輸入しないかと持ちかけてくる。残念ながら、国立大学の教官であった私にできることは何もなく、この点では彼の役には立たなかったが、付き合いは続くことになった。
 さて、その夏の滞在も終わり、明日は日本に帰るというその日、私たちはホテルの部屋で遅くまで飲んでいた。いよいよお別れという段になって、ホテルの外に出ると、もうすっかり夜はふけて、公共交通機関はほとんど動いていない。そこでタクシーをひろうことにしたのだが、タクシーといっても白タク、というか、ほんとうに普通の車である。車は贅沢品だから購入・維持に多額の金がかかる。そこで自家用車を持つ人はだれでも白タクをやって必要な金を捻出しようとするのである。路側で親指を立ててたっていると、次々、車が止まる。行き先を告げて、値段の交渉をして、話がまとまれば乗車である。だが、これは職業的なタクシーではないので、自分の行き先からあまりそれたところには行ってくれない。値段も乗せる側の言い値である。
 この日も、なぜか話がなかなかまとまらなかった。そこで私は、私のドルを使ってくれと持ちかけた。当時は外国人との付き合いが禁止されているだけではなく、ロシア人が外貨を持つことも禁じられていた。公定の両替レートと実勢のレートの間に大きな開きがあったから、ヤミで外貨が出回ることは政府にとって具合が悪かったのである。さらに、ソビエト政府は大都市の市内各所に外国人のための外貨ショップを設け、そこでは物資不足にあえぎ行列を作る市民の生活とは裏腹に、西側のモノがあふれていた。ここから政府は外貨を吸い上げようとしていたのである。だが、ロシア市民はヤミで両替して、こうした外貨ショップなどで物を買おうとしていた。今でこそ、両替所が氾濫しているモスクワだが、かつては観光客が道を歩くと、すぐに風体の悪い男どもが「exchange?」と言いながら寄ってきたものだった。
 したがって、ドルはほとんど水戸黄門の印籠だった。大体、五ドル出すと何でもなんとかなった。タクシーも、レストランでのサービスも、  も、、魔法の力を発揮したものだった。そこでこの日も私は、この五ドルでさっさとタクシーをつかまえなさいと申し出たのである。だが、彼は善良なロシア人であって、友だちから金を恵んでもらうようなことは許せない。私も状況が状況でなければ、このような申し出はしない。彼は、いよいよ歩いて行くと言い出す。だが、彼の妻はしゃれたドレスに高いパンプスをはいていて、歩くのなんかとんでもないと怒っている。すったもんだの末に結局、彼は私の五ドルを受け取って、タクシーに乗って帰った。彼は一九九〇年の段階で五ドルの外貨も、それに(ヤミ・レートで)相当する現金も持ち合わせていなかったのだ。
 その彼が翌年の夏に日本にやってきた。翌年の夏といえば、まさにソ連の崩壊したそのときである。戦車がモスクワの市内を徘徊する映像を記憶にとめておられる読者も多いだろう。当然、彼は計画をキャンセルすると思ったのだが、クーデターの数日後に予定されていたフライトに乗って、彼は平気な顔をしてやってきた。資本主義への転換は歴史の流れで、国民がそれを支持し、自然に体制は転換していくと信じていたのかも知れない。そして、彼は銀座のデパートや新宿の盛り場などを何百枚となくカメラに撮って帰って行った。
 次に会ったのは一九九四年の冬であった。私は学会に出るためにモスクワに行き、学会終了後、ロシアが初めての妻にモスクワを見せることにした。そのときに彼のやっかいになることにしたのだが、家を訪ねて驚いた。広々とした4LDKのマンションには豪華な調度品が並び、高級な陶磁器が食器棚には鎮座していた。そこはエリツィン大統領も近くに住む、郊外の新興高級住宅街であった。地下鉄で中心地まで二十分以上かかるところで、最初に聞いたときにはずいぶん辺鄙なところだと思ったが、彼は自家用車で通勤するので関係ないようだった。ちなみに彼は運転せず、お抱え運転手が毎日、迎えに来るのだった。
 マンションは 年に三十万ドルで購入したという。そのマンションも、長男にあげてしまうつもりらしく、現在、六十万ドルのマンションを購入予定だと言う。
 一体、どこからこんなに金が入ってくるのか私にはよくわからない。彼の現在の地位は、の代表である。この「フィルマ」というやつは、目下のところ、ロシアで雨後の筍のように生まれては消えている。このフィルマは何でも屋のように、儲かりそうな話はみんな乗っているらしいが、今、彼が取り組んでいるのはフランス、ロシア、ウズベキスタンの合弁による投資会社の設立であり、「西側」からの投資の便宜を図るというプロジェクトである。こういう会社を設立するとどうして大儲けできるのか学者の私にはよく分からない。分かっていることは、彼の年収が くらいであり、同居している大学一年生の長男は月千ドルくらいの小遣いをもらい、アルファ・ロメオを乗り回しているということだけである。

第四章

 警官がワイロを受け取る現場を目撃したことがある。モスクワの目抜き、トヴェーリ通りで、駐車禁止のところに停めようとしていた車に警官が寄っていって注意したところ、運転者はさもうるさいというような様子で財布を出すといきなり金を渡した。これが突撃精神豊かなジャーナリストならば近くに寄って金額を確認するか写真を撮るところなのだろうが、私はその勇気がないので遠巻きにながめるだけだった。だが、どうも少額紙幣を何枚か渡しているだけ、つまり何千ルーブル(百円以下)を渡しているだけのようだった。薄利多売の精神で儲けているのだろうか。罰金 二万ルーブルほどから。免許に傷をつけたくない人はそれよりちょっと多くをワイロとして渡す。罰金は事故防止のためにいったんとてつもなく高くしたが、効果がなかったので元に戻したという。

第五章

 彼はペテルブルクの海軍士官学校の学生で現在は士官である。軍人としてはエリートに近い。一年の半分はウラジオストックで実際の海上勤務をし、半分はペテルブルクに戻って学生として生活するのである。卒業のご褒美に二百ドル支給されたという。

 妻のターニャは 工場に勤務している。バスと地下鉄を乗り継いで片道一時間半ほどもある工場に通勤しているが、いったん、手に入れた仕事を手放すとなかなか次が見つからないそうで、この通勤を続けている。朝は 時に家を出、夕方の 時頃に帰宅する生活である。これ月曜日から金曜日まで繰り返して月 ルーブルの収入である。 月八十ドル。今は近くの「会社」経営のスーパーマーケットで働いている。午前十時から午後十時というきつい日が週に三日ほど。

彼の収入は月三百ドル。
光熱費やアパートの管理費などで百万ルーブル(二万円)。
アパートは現在、三万ドル。
年金が百万ルーブル。
タクシー運転手。いい日は三万ルーブルのかせぎ。月七百ドルの収入。
二種免許(現在は取り難い)

話は変わるが、お金にまつわる、ロシア的おおらかさを表す話。公共料金なんかを支払いに行くと、端数があって、お釣りが向こうに足りなくなることがあります。そんなとき、ロシア人の窓口のおねえさんはあわてず、「じゃあ三十コペイカ借りね」とか言って、お札だけ渡してくれます。借りって、いつ返すんだよとつっこみたくなります。日本の銀行なら考えられないね。