品位ある批評を

                                                                      ヨコタ村上孝之

 先日、この前に出た自分の本のISBNを調べようとして、インターネット上の通販サイトのアマゾン・ドット・コムを開いてみたところ、ぼくの旧著『性のプロトコル』に小谷野敦氏が「レビュー」を書き込んでいるのに気がついた。まず、全文を引用する。

大阪にいるセックス系バカ学者の一人。もちろん、全編これ愚書である。
コンドームをつけてもつけなくても快感は変わらない、と著者は言いたい(らしい。文章が下手なので普通に読むと分からない)が、そういうことは科学的論証をしてから言うものである。

7章「「性」の誕生」は、徳川時代の日本人は女の裸体に関心を持たなかったなどと主張しているが、真っ赤な嘘である。ハンス・ペーター・デュルの「裸体とはじらいの文化史」で完璧に覆された俗説で、その邦訳刊行は1990年であるから、著者の不勉強ぶりが如実に窺える。なおあとがきで、アカデミズムの体制を否定すべく一般向けの書き方をしたなどと嘯いているが、それならなぜ博士論文を英語で刊行しているのか。まことに「フーコーには詳しいがゾンビのような」ポストモダニスト(イーグルトン)の典型である。
小谷野敦

 以前、駒場で開かれた「駒恋シンポ」の席で、批判に答えなかったことを非難されたことがあるので、上の批評にも答えなければならないのかと考えた。もっとも、この文章は小学生の悪罵のようなもので、まともに反駁するのもばかばかしいような気もする。しかし、やはり批判されている以上、最少限、言うべきことは言っておくことにしよう。
 性的快感について。小谷野氏は快感を何ワットとか科学的に測定できるものだと思っているらしい。素朴な科学至上主義である。われわれにできるのは、性的快感をめぐる言説のありようを検討することだけである。  裸体のエロティシズムについて。ぼくは「徳川時代の日本人は女の裸体に関心を持たなかった」というような主張はしていない。ぼくが言いたかったのは、「裸体は本質的にエロティックである、すなわち、女性の裸体はいかなる場合にも欲情を喚起する」というような普遍主義的な言説が誤りであるということである。なぜなら、たとえば、共同浴場における女性の裸体は性的まなざしの対象には必ずしもなっていなかったから。デュルの著作はこの「俗説」に異議をとなえ、普遍主義的な主張をしようとしたものらしい。彼の説がいつから、エリアスを初めとする論敵の議論を完璧に覆し、真説としてゆるぎない権威を持つようになったのか、不勉強なのでよく知らないが、デュルが日本研究者ではなく、日本文化について書いていることは全て二次資料か翻訳文献によっていることだけは指摘しておくことにしよう。
 アカデミズムについて。確かにぼくは米国の大学出版局から本を出したが、そのことで、ぼくが持っている、現在の大学制度や学術的な「知」のありように対する懐疑の念をなぜ反故にしなければならないのか、よく分からない。人はみな己のアイデンティティーに矛盾を抱えつつ、それを内部から徐々に変革しようとすることができるだけだ。ぼくは自分が日本人であることに違和感を覚えるが、日本人であることをやめることは(とりあえず)できないように。(おぼえてらっしゃる方も多いと思うが、小谷野氏は数年前、ぼくが比較文学という方法に対する否定的な考えを持っているという理由で、日本比較文学会から除名しようという工作を熱心にした。思想犯狩りでもしているつもりなのだろう。)
 さらにもう一つ。冒頭の「レビュー」は、学会誌、新聞、文芸誌その他に載せられたものではない。通販サイトへの書き込みである。小谷野氏は、ぼくの本をなるべく売れなくしてやろうという具体的な意図のもとにこうした書き込みを行っているのである。そのような狙いは彼のほかのレビューを見れば、もっと明白である。佐伯順子氏の『遊女の文化史』には「読んではいけない」と題して、次のようなレビューを寄せている。「くれぐれも学生が読んで本気にしたり、ないし大学教師が学生に勧めたりしないことを望みたい。」
 佐伯氏の著書はともかく、ぼくのものは二千、三千というような部数でしか出ない本だから、小谷野氏がほめようと、けなそうと売り上げがそうそう変わるものでもなく、そのことで苦情を言いたいのではない。だが、ここで気になるのは、自分の気に入らない本、認めない本を、売れなくしてやれ、読まれなくしてやれという、小谷野氏のスタンスである。「良書」も「悪書」も、「刺激的な本」も「愚書」も、市場に流通し、読者の好みによってアクセスが保証され、その上で批評・批判が対話的に行われる、それが自由な学問の理想なのではないか。小谷野氏のような人が政治権力を握ったならば、自分の意に合わない書物を全部、発禁にしてしまったり、焼き捨ててしまったりするのだろう。そら恐ろしいことである。
 最後にもう一言。小谷野氏は、近年、「師」、「先輩」、同僚にあたるような人たちを容赦なくこきおろす文章を多くものしている。そして、そのことを喝采する人も多いようだ。同じアマゾン・コムのレビューには、小谷野ファンとおぼしき人の次のような文章も載せられていた。「尖がって尖って、保身だの処世だのといったことも省みず師匠(たぶん)だろうが先輩だろうが辛らつに批判したり、世の中の風潮にまどわされることもない云々。」こういう声に後押しされて、氏は調子付いているのかも知れない。
 師を敬えとか、先輩を立てろとか、そんなことを言うつもりは毛頭ない。二十余年前、院生だったころ、上の学年の人を「先輩」と呼んでいたら、当時、助手だった加納文代先生に「村上さん、ここは体育会系のクラブじゃないんだから、そういう言い方はやめてください」と窘められたのを思い出す。大いに忌憚のない批評をするべきである。だが、そこにはそれなりのマナー、そして、同じ学問を修める者に対する最低限の敬意が必要なのではないか。品位ある批評を望みたい。