積極的な賛意に伴って、いくつかの疑念が湧いてきた ― 二者ともに学外の観であるが。やがて二者錯綜して、ひと事ならぬ思いに導かれた。まずその疑念から。
(1) 「CDA」のような分析や活動が日本でもあってよかったのに、紹介されているものが海外それもヨーロッパに限られているのが気になった(チョムスキーなどが学際的に引用されてはいるが)。これに近いものがこの国にないでもなかろうが、方法的な自覚が足りなかったり、厳密さを欠くとでもいうのか。
(2) 日本では、「談話」などの行間に潜むイデオロギー(広義)を摘出するまでもなく、それらが公然と言動に表明されていること、しかもそれらのうち反動性が露骨なものさえあること、これを思えば「CDA」以前といえまいか。ふつうの批判と克服が緊要なのではあるまいか。むしろ氾濫する情報がすべて相対化していくなかで、情報を批判的に整理する方法が求められはしまいか。
(3) 問題は、イデオロギーがカムフラージュされているケースであろう。例えば、小泉首相の靖国社頭の平和祈念だとか、“自由主義史観”とやらによる「大東亜戦争」再評価など。これらに「CDA」的なアプローチが期待されぬでもないが、まだそれ以前のようだ。もっとも期待されるのは次の社会的現象ではあるまいか。テレビなどで、イデオロギーめいたものが討論されたあげく、相対的に中立化されて、社会に沈殿してゆく情況などで。
(4) 紹介された、各アプローチ(「理論先行型」はいちおう措くとして)が、多岐に細分化専門化されすぎていて、前記日本の現状に ― ひいては世界のそれに即して、有効なアプローチはどれとどれか、選びにくい。方法のみが詳細すぎる。「ストラテジー」が問われる。とはいえ、この論文は基調のそれであって、以下の各論が見本となっているらしい。
(5) 「談話歴史法」というのは、原語を見てもいかにも分りにくい「術語」である。私の曲解かもしれぬが、このものを次の如きものに期待してよいのであろうか。前記小泉首相の靖国参拝と、戦時中の歌謡曲の文句“ご無事のお帰り待ちましょと、いえばあなたは雄々しくも、今度逢う日は来年四月、靖国神社の花の下”とを繋ぐコンテキスト。また「大東亜戦争」再評価と、これも同じく戦中歌謡曲“東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう”とを繋ぐコンテキスト。この項目のところで、オーストリアの現在のユダヤ問題が取り上げられたとある。これを「歴史」上遡って、ワイマール体制下でのナチス体制成立 ― これこそホロコーストの因 ―― などに適用できるのか。 さらに事を広げて。ブッシュ大統領の失言“十字軍”とこれに対する「聖戦」。これを歴史上遡って、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教的系譜が持っている排他性に求めるなんてことは、埒外か。 それとも、これらは歴史や政治の領域であって、「CDA」はもっと狭い領域に己を画すものである。しかもより広い社会的な場での「遊撃」に己を限定するのだろうか。(「総合」の必要も説かれてはいるが)
(6)「グローバル化」の方が、「談話歴史法」よりも巾広いのだろうか。“ブレア首相のレトリックを詳細に分析”(P.36)とあるが、それは目下のブレアのイラク参戦への批判たり得るのか。とくに彼の“虚言”とやらに。
(7)批判活動の道程では、分析は鋭利たるべく、収拾?は緩急よろしくあるべきではなかろうか(「言語学的」アプローチとか「哲学的」アプローチは別として)。“針小棒大”にあらずして、じつは針ならぬ棒であるとか、「揚げ足」にあらずして、じつは蹴り足であるとか、丁寧な表現が必要であろう。鋭利になりすぎると、言論の窮屈を招きかねまい。中国の文化大革命の殷鑑遠からず、また近くは日本の極左の内ゲヴァ。もっと広いところでも、核反対広島集会の分裂。
(8)具体的に野呂個人(この論文で伺える)に即して言う方がよいと思われること。 この人のイデオロギーは、ベーシックなものであり、一面それゆえラジカルであるらしい。ベーシックである以上様々のエレメントがあろう。事に際して、その各エレメントの整合や優先順位が問題になるのではあるまいか。そのことと「CDA」とは無関係でありうるのか。 あせることなく、広い基盤の中で、可能のものからやっていく。永い目で見ればそれで社会が変えられていく。急を要するものはラジカルに。たしかにそうも思える、それしかないともいえる。それならそれで「緩急」を示すべきではなかろうか。
(付)私の戦時体験に、私なりの経験的分析を施してみた。その及ばぬところを「CDA」に問うてみたい。
旧制高校在学中「学校教練」の一課程として「兵営宿泊」が課せられた。内務班という、陸軍の教育組織に投入された、級友らと別れ別れに。その班長(上等兵だったか)が、私たちの住んでいる都市を“地方”と呼び、住民(今なら市民)を“地方人”と呼ぶのに驚いた。軍隊では対話がなかった ― 命令とその復唱とその実行あるのみ。従って私の反応はすべて心内語であった。“してみると、ここは「中央」ってわけだ、それが彼の励みになっているらしい”。 連隊の塀の外に出て、市内に帰ったとたん、もとの木阿弥。「皇軍対市民」という意識は当時持てなかった。日ならずして「こちとらも兵隊」という緊迫した時局でもあった。 「皇軍」は「地方人」を守る組織ではなく、とくに老人子供は邪魔者でしかなく、目的は国体護持にあった、などというコンテキストは、戦後になってようやく身に染みた。 ひところ地方選挙で、「中央直結」ということが唱われた。これもかの班長の再版を思わせないでもなかったが、お金がからんでいた。いつか時流の中で、その声もひそまった。 海軍航空隊に身を投じたとき(学徒出陣 ― この語も分析されてよい)、今度は「地方」に代えて“シャバ”という言葉を吹き込まれた。一種の逆説的居直り、私にはややキザに思えた。今は遠い人間の生活に背を向けて“ジゴク”へまっしぐらというわけ。しかし学生あがりのエセインテリにとって、この逆療法はけっこう有効だったかもしれぬ。「特攻」まで短絡したわけではないが。ゲッベルスではないが、あまりの背理は理性を役立たずにする。「感情」や「気分」が表に出て来る。そんな馬鹿げた洗脳は今は無効である。しかしあの頃の自分はと正直に白状するなら、シャバとジゴクとの間に、人間と軍隊との間に宙吊りになっていたという他はない。しいていえば、かなりシャバよりに、人間よりに。