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Seoul

 ソウル旅行

1993年10月12日から10月15日まで、韓国のソウルへ行った。ヨーロッパへは何度か行ったことがあるが、アジアの国を旅したのはこれがはじめてだった。目的は観光で、旅行会社が提供しているパック旅行を用いて行った。そのほうが自分でチケットやホテルを予約するよりも面倒でなく、ずっと安あがりになったからだ。ここではその時の印象を記す。

まず第一に、アンニョンハセヨ!というすこやかな挨拶の声が忘れられない。ソウル市庁近くの徳寿宮の入り口、大漢門の前で女子高校生達が門番の係員に明るく元気よく発していた。その声は朝のさわやかな空気のなかに消えては、また何度も聞こえてきた。

韓国の若者のすこやかさについては、茨木のり子が李海仁の詩の解説で次のように述べている。「今やどこの国もそうだが、若者までが物欲主義、拝金主義にまみれている時、こういう精神性の高い詩集がたくさん読まれているということは、それへの強烈な反志向をあらわしているようにも思われ、隣国の若者の底を流れているあるすこやかさを、かいまみずにはいられない。」1 ぼくは、可愛らしくてはつらつとしたアンニョンハセヨという声に隣国の若者のすこやかさを見たが、茨木のり子が連想したすこやかさはどんなものだっただろうか。李海仁の詩を引用しておこう。

ちびた鉛筆

あんまりちいちゃくて

手でつかめない鉛筆ひとつ

誰かが使いふるしたみすぼらしいはしくれ

なつかしくも なぜここに ころがっているの

欲深でなけりゃ

てんで馬鹿にされるこの世のなかで

ちびて ただ与えるばかりで

ひたすら酷使されてきたのね

代償をもとめない

清潔な消滅

命にしたがう素朴な従順

わたしもそれにならいたい

軽薄な言葉を捨てて

真実だけを表現しながら

おまえのように黙々と生きたい

黙々と 痛くありたい  

この詩は「自分の感受性ぐらい、自分で守れ」といった茨木のり子にどこか通ずるところがあるように思う。アンニョンハセヨと元気に挨拶していたあの女の子達のなかには、こんな詩を読んでいた子もいたのだろう。

さて、二番目の印象は、風土の違いである。韓国に比べると、日本の風土は優しく、和らいでいる。禿げた山肌と、赤茶けた家々の壁の色は、きびしく、情け容赦のない大陸性の自然を物語っていた。そうした自然環境の違いは、当然、社会生活にも反映しているに違いない。どの社会もそれぞれきびしいものなのだろうが、韓国社会のきびしさの一端として、次のような情景があった。

それは「東洋一」の本屋、教保文庫に通ずる地下道で起こった。朝の10時に通りかかったときにはもう露店商がリズミカルに、歌うように本や鞄や靴、ネクタイなどの雑貨を売っていた。まるでフーテンの寅さんのようなおっさんや、恰幅のいいおばさんたちが暢気そうにのびのびと仕事をしていた。ところが、二時頃再びそこを通りかかると、私服警官のような人達が無造作に彼らの商品を押収していたのである。そのしぐさがあまりに無表情であったため、最初何が起こっているのかわからなかった。しかし、さきほどの暢気そうなおばさんが泣きじゃくっているのを見て、ようやくことの次第を理解できた。彼女は泣きながら抵抗を試みたが、警官達はそんなことはおかまいなく、無言で彼らの作業を続けていた。まさに晴天の壁歴のようなできごとであった。その後、押収された商品がもとの持ち主に返されたのかどうかは知らない。が、ともかくきびしい処置であった。日本では、そんなことはないだろうと思ったが、同時に、日本人はかつて韓国人に対してそれとは比べものにならないくらいひどいことをしたのだろうな、とも思った。

訪韓したとき細川首相は、植民地時代のことについて韓国の大統領に陳謝したという。陳謝したら許される問題でもないだろうが、これまでのやり方に比べたら、ずっと良いに違いない。

ところで、僕らの世代にとって、日本が韓国を植民地にしていた時代のことは遠い過去のことである。日本史や世界史などの授業でもあまり習ったことはないし、小学生や中学生の時の関心はメディアによって操作され、もっぱらアメリカに向いていた。その背後には、アメリカに追従する西側諸国の一員として、経済的な価値観によってすべてを測り、他を排除しようとする日本社会の暗黙の了解があったのだろう。だが、ソ連が崩壊し日本の経済力が強大になった今、これまでの価値判断の基準は次第に有効性を失っていくことになるのではないか。むしろ、これからはアジアの一員としての日本、そしてアジア人としての日本人といういう感覚が重要になってくるに違いない。アジアの一員として他のアジアの人々と対等につきあおうとする場合、過去の歴史をできるだけ正確に知っておくことは大切でる。これからの世代の日本人が植民地時代をそれほど遠い過去と感じず、過去の歴史について正確な知識をもてるようにしたいものだ。それが、これからの国際感覚を磨くための手段であろう。

ヨーロッパで生活していると、当たり前のように中国人や韓国人と親近間を持つことができ、アジア人としてのアイデンティティーを感じることができる。韓国人の経営する飲食店などに行くと親切にしてくれ、特別な料理を食べさせてくれる。また、学食などで並んでいると、あまり話したことのない中国人の学生に、お金を忘れたのでちょっと貸してくれと頼まれることもある。そんな時、僕らの肌は同じ色で、同じ東アジア出身なんだなと思うのである。

風土の違いや歴史の違いに見られる異質性と、共通の土台としてのアジアという同一性を認識することは、興味深い知的冒険の一つである。

第三番目の印象として挙げなければならないのは、韓国の食べ物である。この旅行で食べたのは、ビビンバ、プルゴギ(焼き肉)、サムゲダン、カルビといった韓国料理で、すべてとてもおいしかった。ぼくはもともと関東の生まれなので、関西の食べ物のおいしさには常日頃から感服している。うどん、お好み焼き、たこ焼き、お寿司などはとてもおいしいし、それなりに舌も肥えてきたと思う。それでも、韓国の焼き肉やキムチは非常に美味に感じた。

プルゴギはロッテショッピングセンターの十階にある飲食店広場のようなところで食べた。日本の焼き肉とは違い、網のうえで肉を焼くのではなく、穴のあいた中華鍋を逆さにしたようなものの上に肉をのせ、煮るように焼いて食べるのだが、肉の味もたれの味もさすがに本場であった。どちらかというと味噌をベースにした甘味のあるたれで、肉はとても柔らかかった。サムゲダンというのは、若鳥の内臓をとり、そこにもち米や粟をいれて他の野菜と一緒に煮た料理で、こちらはホテル近くの小さな食堂で食べた。汁の中に高麗人参も入っており、とても健康的な料理なのである。高麗人参は苦かったが、若鳥の肉はおいしかった。焼き肉もサムゲダンも捨てがたいが、一番おいしかったのは、ミョンドン(明洞)のチャンス・カルビ・ポンガ(長寿カルビ本店)というお店で食べたカルビである。偶然入った店だったが、後になってガイドブックに載っていることを発見したため、こうして名称まではっきり記すことができる。もし、ソウルに行くことがあったら、ご賞味あれ。

プルゴギを食べたロッテショッピングセンターでは、日本語がいわゆる作業語になっていた。センター内の食堂でも、ある程度の日本語なら理解してくれる。免税店のある階では、店員のほとんどがかなり流暢に日本語を話す。そういう意味で、ソウルのデパートでは日本語が完全に国際語となっている。まるで英語しか話せないアメリカ人が日本のデパートへ行って当然のごとく英語で買い物をするように、日本人がソウルのデパートで日本語を使って買い物をしている。カルビを食べた繁華街のミョンドン(明洞)でも、道に迷ったとき、つたないハングルで道を訪ねると日本語で答が返ってきたし、南大門市場の通りでも何度も「皮のジャンパーあるよ」と呼び止められた。

日本の経済力が韓国における日本語の地位を向上させたことは間違いない。外国で母国語が使用できるというのは本当に有り難いことで、とても便利である。しかし便利であるがために、ついそれに甘えてしまう。最初は韓国で日本語を使えることが不思議に思えたが、それに慣れてくると、今度は日本語が使えないことが不思議に思えてくる。ぼくも含めて、そういう日本人は尊大に映ることだろう。韓国や中国で日本語の地位が高くなっているからといって、日本人のイメージが良くなっていることにはつながらないであろう。焼き肉を食べる作法だって知らないのであるから、知らず知らずのうちに、とんでもないことをしていたかも知れない。

文化によるマナーの違いというのも、異文化間コミュニケーションにとっては重要なテーマである。考えてみれば、過去の歴史を振り返り、民衆を操作していた言語活動を研究したり、ある言語の地位を考えてみたり、そのその言語の話し手のイメージを考えてみることは、れっきとした社会言語学のテーマであった。

他にも記しておきたいことは山ほどあるが、それは次の機会にゆずることにする。最後に一つだけつけ加えておかなければならないのは、韓国人女性の美しさである。ちなみにこれはぼくの妻の印象であるが、実のところ、ぼくもそう思った。それもあって、今後また、いつの日にか韓国を訪れたいと思っている。

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