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Kritik von Gino Eelen

Eelenのポライトネス批判

人間の社会的相互行為における敬意を考察したポライトネス理論に対し、Eelen (2001)は代表的な9つの理論についていくつかの観点から批判をしている。ここではWatts(1992a)が提唱した日常的・常識的な概念としてのfirst-order politeness(以下、politeness1)と学術的・科学的な概念としてのsecond-order politeness(以下、politeness2)の区別という観点からの批判を紹介する。本来politeness2はpoliteness1について客観的な考察をするための抽象的概念であるとされ、これら2つのポライトネス概念は明確に区別される必要がある。Wattsは日常的な人間の相互行為を説明する際の科学的分析にpoliteness1の概念が用いられることにより理論的分析の価値そのものが危うくなると、2つの概念の区別を曖昧にすることの危険性を示唆している。ここでの問題はポライトネス理論の多くがpoliteness2の定義そのものを欠き、「互いに共有される他人への配慮の形態」という不明確な暗黙の合意を前提に論理が展開されているために、politeness1−politeness2間で一方の性質が他方に転移されてしまっていることにある。

2つのポライトネス概念を区別するには、まずpoliteness2の考察対象であるpolitenss1がどのような概念であるかを正確に捉える必要がある。Politenss1は日常生活において人がpolitenessを記述する際に用いられる概念である。Eelenは以下5つの観点からpoliteness1を記述している。

? politeness-impolitenessは人の振る舞いを社会的価値観に基づいて評価する際の尺度となる評価的な概念である。一般的にpolitenessは肯定的評価、impolitenessは否定的評価に結びつく。ただし、politenessが否定的、impolitenessが肯定的に捉えられる例外もある。例えば、冗談は言語表現としてはimpolitenessであるが、言われた相手は冗談により感情を害されたとは思わないので冗談は否定的評価につながらない。逆に、他の目的を達成するためにpolitenessをうわべのマスクとして使用することは誠実性に欠けるという意味で否定的評価を受ける可能性がある。

? politeness1は常に日常生活の実例であり、社会的利害関係に関わる概念である。振る舞いに対するpoliteness-impolitenessの主観的評価は常に社会的効果を生む。例えば、子どもが父親を’daddy’や’dad’と呼ぶ際、これらの呼称は「男性の親」という社会的に中立かつ客観的な意味合いは失われ、代わりに社会的効果を生む。

? Politenessは常に連続的なpolite-impoliteの幅のうちのpolite部分にのみ言及し、impoliteにはimpolitenessが対応する。例外として、話し手の誠実性が疑われる場合は、話し手の言語的振る舞いが実際の話し手の意図と一致する場合にのみpoliteであると評価される。さらに、politenessがformalityと同義で用いられる場合は、politenessは話し手にとって疎の関係にある人に対してpoliteであることを意味する。

? Politeness-impolitenessの評価は社会的価値観(=社会規範)と照らし合わせることによりもたらされる。ここでの評価は?で示すようにpolite-impoliteのうち肯定性と結びつくpoliteを指向するものである。

? politeはこの対極としてのimpoliteの存在により理解可能な概念であり、politeness1は自由選択の結果としての振る舞いに対する評価を反映する内省性をもつ。

 Eelenは以上のpoliteness1の記述を踏まえ、politeness2は以下の3つの性格をもつ概念である必要があると主張している。

? politeness1に対し評価を加えない客観的な概念であること。

? ?規範的性格を持たないこと。

? ?連続的なpolite-impolite全てをカバーすること。

 次に各ポライトネス理論におけるポライトネス概念を上記の性格に照らし合わせていく。 「各ポライトネス理論」についてはポライトネスにおける諸研究を参照のこと。

1.Lakoff (1973)が提唱するポライトネスのルールは、言語使用の体系を理解するためのツール、すなわち科学的概念であるとされる。その一方で、この理論においてポライトネス概念は日常レベルでのpoliteness/ impolitenessの評価を超え、状況的適切や相互行為スタイルをも含む広い概念として用いられており、結局のところ2つのポライトネス概念が明確に区別されていない。

2.Brown&Levinson(以下、B&L) (1987)はModel Personを想定した上で、ポライトネスをフェイス侵害行為に対するフェイス補償ストラテジーと定義している。ここでのポライトネスはLakoffと同様、politeness1の概念よりはるかに広い概念である。B&Lは先のようにポライトネスを定義することにより、科学的かつ客観的な視点から言語行為を分類する一方、補償されないFTA(フェイス侵害行為)はimpoliteであることを含意する。聞き手のフェイスを侵害するFTAとして挙げられる申し出や約束などの行為は、日常的相互行為においてimpoliteであるとは解釈されない。B&LはPoliteness1とpoliteness2の区別の必要性は認識しているものの、理論中での区別は曖昧である。

3.Leech (1983)は自分のアプローチの対象を言語使用の’local’ではなく’general’な状況とすることによりpoliteness1とpolitenss2の区別をしている。しかし、Leechの丁寧さの原理(PP)は話し手の頭の中にあるものとされ、これはPPが一般的概念であることを意味し、2つのポライトネスの区別がはっきりしない。

4.Ide (1992)はB&Lの理論で主張されるポライトネスの普遍性に対する批判として、日本社会におけるpoliteness1について実験的研究を行い、その中でDiscernmentとVolitionという概念を導入している。Discernmentは 科学的概念であるはずが、Ideが実験結果により日本人のpoliteness1の基本概念としてのDiscernmentを確立している。Volitionは言語的にpoliteであるために話し手が使用するストラテジーと定義されるが、これはVolitionが言語使用者のポライトネス概念であることを意味する。ここでもやはりpoliteness1/politeness2の境界が不明瞭になっている。

5.Blum-Kulka (1987)はインタビューに基づいてpolitenss1の研究を行っているが、ここで提唱されるモデルは一部の経験的データに基づくもので、politeness1の理論とは言い難い。さらに、このモデルでは、’less polite’=’more polite’とされ、これらはimpolitenessに対応するとされている。

6.Gu (1990)はIde同様B&Lの普遍性への批判であり、中国におけるlimaoの概念を研究している。このポライトネス概念はLeechの考えを基礎に、道徳的要素を組み込んだ公理により構成される。したがって、公理に沿った振る舞いはpoliteness、公理から逸脱した振る舞いはimpolitenessと見なされる。Guは行為を行うか否かの選択を、利益/損失に関わるポライトネス体系に組み込んでおり、申し出や招待は自分に損失をもたらし相手に利益をもたらす本質的にpoliteな行為とされる。中国では申し出や招待を受けても、すぐに受けず、何度か断ってから最終的に受けるというやりとりが展開されるのが典型的であるが、これは申し出や招待を受けた側が何度か断ることによって相手が誠実(本心で申し出や招待をしているのか)、ポライトであるのかを見極めているためである。このやりとりは先の申し出や招待が問質的にpoliteであると見なされるとの概念を矛盾するので、politeness2と言える。しかし、Guが挙げるlimaoの4つの要素(謙遜、呼称、気配り、寛大さ)は、モラル的性質を持ち規範性に言及するものである。つまりここでのポライトネス概念にはpoliteness1の性質も混在しているということになる。

7.Fraser&Nolen (1981)はポライトネスをその時々の会話の契約(CC)内で振る舞うことと定義し、CCによって相手に払うべき敬意(deference)の程度が定められるとしている。実際に表す敬意の程度により話し手はpoliteかimpoliteか判断される。Fraser&Nolen は調査に基づいて言語構造そのものをそれぞれが表す敬意の程度によりランク付けしている。この調査は、25の構造を2つずつ被験者に提示し、どちらの表現がより敬意を表すかを選ばせることによりランク付けするというものだが、被験者は誰一人として25すべての表現を比較していないので、ここで得られた結果が実際のランクと異なる可能性が大きい。この理論においてpoliteness/impolitenessの判断は聞き手に委ねられるとされているが、これはここで扱われるポライトネスが日常レベルのpoliteness1であることを意味する。

8.Arndt&Janney (1985a)はポライトネス研究の論理的アプローチから社会心理学的アプローチへの転換の必要性を主張する。そもそも「ポライトな形式」というものは存在しないとした上で、話し手の直感を重視している。ここでのポライトネス概念は話し手の思考の科学的実現である。Arndt&Janney は個人間ポライトネスに焦点を当てているが、個人間ポライトネスを考える際には相互行為の習慣が支持的(supportive)であるとの仮定がある。人は相互行為をするにあたり相手は誠実であるとの仮定の下で、個人がストラテジーとして用いるemotive cuesを支持的であると解釈する。相手が誠実で支持的であるとの期待に反することがimpolitenessと見なされる。ここでポライトネスは誠実性の問題になっている。Arndt&Janney の理論においてポライトネスは科学的概念であり、かつ常識的概念でもある。

9.Watts (1992)は相互行為における均衡状態を無標の状態とし、この状態における振る舞いを”politic behaviour”と呼び、politeをpoliteness1に、politicをpoliteness2に対応させることにより2つのポライトネスを区別している。その一方で、politenessを話し手自身の社会的地位を高めるために用いられる利己的振る舞いであると解釈している。Wattsは理論的概念としてのポライトネスを日常的概念に戻してしまっていることにより、2つのポライトネス概念の区別が曖昧になっている。

 このように多くのポライトネス研究において、2つのポライトネス概念は明確に区別されておらず、研究者による分析・解釈の視点と現実社会の人間の評価の視点が同一化し、本来politeness1の性格とされる評価性と規範性がpoliteness2に転移している。評価性、規範性はまさにpoliteness2が持ってはならないと先にEelenが指摘した性格である。Politeness2はpoliteness1の現象を説明する概念であるはずが、日常的社会行為での振る舞いに対し社会規範に基づいて評価を加える聞き手と同じ視点をもってしまった結果、politeness2が持ち合わせるべきではない評価性と規範性という性格を持ってしまっている。ポライトネス研究においてpoliteness1を客観的に考察することのできるpoliteness2は未だ確立されていない。(文責:執筆時 博士前期課程1年 北野真理恵)

<参考文献>

Eelen, G. 2001. A Critique of Politeness Theories. Manchester: St Jerome.

Watts, R. 2003. Politeness. Cambridge: C.U.P.