ブルデュー社会学の敬語研究への応用可能性
この論考では、敬語研究にあたって興味深い視座を提供してくれる社会学者ブルデューの知見を取り入れながら、既存の敬語研究の問題点を指摘し、新たに敬語を研究する視座を示していく。
論考を進める前に、なぜ社会学者ブルデューを援用するのかという問いには簡単に答えておく必要があるであろう。ひと言でいうならば、既存の敬語研究もしくはPoliteness研究では言語と権力、支配―被支配という問題を批判的に検討することができないからである。以下に言語と権力についてのブルデューの興味深い見解を引用してみよう。
言語=国語は、集合的に認知されたがゆえに実現され=実現する存在、というものの表象を生産するものであり、そうするがゆえに言語=国語には「存在へともたらす生産力」とでもいうべき権力が授けられているからであり、おそらくそれゆえにこそ、言語=国語は絶対的権力という夢にとって、絶好の媒体=支持体なのである (ブルデュー 1993 p.31[1])
ややわかりにくいので簡単に説明するなら、日本語などという呼称をもつ言語とは、国民国家に本という枠組みにおいて造り上げられたその名の通り国語である。そしてその言語=国語は国家という政治的領域における教育機関において正統な言語としての地位を唯一有しており、そしてそれが国民に広く認知されていることばである。そしてことばは、それが指し示す物があたかも存在するかのような魔術的な力を有している。従って、この「存在へともたらす生産力」ということばのもつ魔術が言語という名の国語という一部の言語変種にのみ許されているのならば、言語=国語とは絶対的権力にとって格好の媒体であろう。以上は言語という名の国語の持つ権力性を批判的に分析したブルデューの引用であるが、一見誰もが使うことのできる中立的な媒体と思われがちな言語がいかに権力の道具立てとなっているかを端的に示しているといえるであろう。
以下の論考では『話すということ―言語的交換のエコノミー』(ブルデュー 1993)を参照しながら、ブルデューの研究の敬語研究への応用可能性についてふれていくことにする。ただし、ブルデューの研究範囲はあまりにも広大なためこの論考では、「市場の統一化」、「正統性を賭けた分類闘争」、「象徴的支配」の3つのテーマに絞って論を進めていきたい。
1.言語市場の統一化
日本語にせよ敬語にせよ、それを所与の研究対象として捉えることはできない。なぜならそうした操作はある自律的な言語体系とされる国語がいかに歴史的・社会的に構築されたかという問いをはぐらかすからである。
ブルデューは、ソシュールにはじまりチョムスキーにも受け継がれている言語学が、(ラングもしくは言語能力とは名をかえているものの)結局は研究対象を国家の言語である国語に帰しており、それが恣意的な操作であると批判する。これを理解するために、まずは日本人が話す「日本語」というものがいかにして造り上げられたかについてみてみるのがよいであろう。
日本語とは、明治期の近代国民国家「日本」の誕生にともない、「日本語」(国語=標準語)を日本国民の唯一にして絶対の言語であるとする単一言語政策がしかれる一方、多様な言語変種(例えば方言)は抑圧され、言語市場が正統言語である日本語(国語=標準語)を頂点として統一化されたという歴史的経緯を経て造り上げられたものである。
この事態が指し示すのは、政治的帰結による言語変種間序列化とその頂点に君臨する日本語(国語=標準語)の覇権の成立である。
このような言語市場の統一化と敬語はどのような関係があるのであろうか。山下(2001)は、敬語という正統言語がいかに構築されたかを敬語研究の歴史的背景を踏まえながら以下のように述べている。
大まかな図式としては、「国語」を確固たるものとするため「醜く」「恥ずべき」「方言」が排除されて
きたのと平行して、これを定着させるための道具として「美しく」「正しい」「敬語」が利用された…
(山下 2001 p.53)
つまり、敬語は言語市場の統一化において日本語(国語=標準語)の正統性を主張するにあたって積極的な根拠として美化されながら造り上げられたものなのである。そう考えるならば、国語にせよ敬語にせよそれを所与の前提として研究することがいかに不十分であるかは明らかであろう。ソシュールやチョムスキーが研究対象を言語という名の国語に設定することで、言語市場の統一化における抑圧と覇権の樹立という過程はそぎ落とされてしまうのである。
こうした言語市場の統一化において正統言語は教育(学校)機関、言語政策などによって支えられ、そして正統言語話者(文法学者や社会言語学者といった言語的権威)による絶え間ない訂正と検閲をうけることではじめて恒常的に保たれる。
2.正統性をかけた分類闘争
以上のような歴史的経緯を経て敬語という実体が構築されたわけだが、その過程において様々な取捨選択と分類が行われることになった。つまり、どの言語変種、言語表現が正統性をもった「正しく」「美しい」敬語なのかが決定されたのである。そしてこの分類において重要な役割を担ったのが、国語学者という国家によって権能を付与された言語的権威である。しかし当然ながら、多様な言語変種や言語表現の間にいかなる序列もあるはずはないのであるから、「正しく」「美しい」という価値はあくまで社会的に造り上げられた恣意性にしかその根拠をもたない、ということには注意が必要である。
こうして正統言語としての「正しく」「美しい」敬語が国語学者達によって構築されたわけだが、ことばは常に変化するものであるから、敬語が正統言語としての権威を保持するためにはそうした言語的変化についても常に検閲と訂正がなされなければならない。従って、ある歴史的な点において突然構築された敬語は当初はそれを話せるというだけで言語的資本になったであろうが、メディアや教育機関によって正統敬語が徐々に浸透し、それに伴い多くの言語的変化が表れると、言語学者たちは再びそれらを正統か否か分類し始めるのである。これは、現在なぜこうも多くの「正しく」「美しい」敬語に関する実用書が出版され、それに関する議論がもはや通俗化した形で行われるかを説明してくれるであろう。言語的権威は学者風の言説でさも得意げに自らの説く敬語の正統性を主張するのであるが、社会学的にみれば権能を付与されて正統言語の話者と認知されている者が、恣意の正統性を押し付けているに過ぎない。そして逆にいうなら、多くの人が自らの言語的生産物の価値を相手に押し付ける能力に欠けているということになる。こうして、正統言語話者は自らの言語的資本という権益を保持するために、自他の言語的生産物を区別し、自らにのみ正統性を付すことで弁別=卓越性(distanction)という利潤を得るのであり、この絶え間ない検閲と訂正そして差異化のプロセスこそが正統敬語の権力を揺るがないものにしているのである。
このように、敬語に関して常に正統性を賭けた分類闘争が行われているわけであるが、そこで興味深いのは言語的権威による恩着せがましさの戦略であろう。これはひろく自身の立場の正統性が認知されている場合にかりそめでも象徴的支配を否認することで利潤を得る戦略である[2]。これと非常に類似した戦略が正統言語話者の敬語の語りにも見受けられる。一例として文化審議会による敬語の指針(2007)を例にとってみよう。
世代や性によって敬語の使い方や考え方に違いあることについては、一つ一つの言葉遣いを
敬語使用の現状や現代の規範に照らして、吟味しながら受け止める姿勢が必要である。同時に、敬語を、世代や性による画一的な枠組みによるのではなく、「自己表現」として選ぶという姿勢や工夫も必要である。 (「敬語の指針」
p.9)
国内各地には、それぞれ固有の方言(地域言語)がある。そして多くの方言には、それぞれ独自の敬語がある。(略)方言のこうした多様な敬語は、方言一般と同様、その地域に既に定着したものであり、そこでの言語生活に欠くことのできない、多様で豊かな言語表現を作り上げる。 (「敬語の指針」p.8)
上記二つの引用は、一見敬語の多様性に寛容であり、敬語の世代、性、地域差を「自己表現」として肯定的に評価するという姿勢がみうけられる。しかしながら、指針の内実はというと、「本指針の第二章、第三章では、全国共通語の敬語を中心に述べることになる」(「敬語の指針」 p.8)述べられ、あくまで敬語として中心的に分類されているものは標準語とされる一部の言語変種である。これは、いみじくも敬語がどのようにして造り上げられたかを思い起こさせる。1章において既に言及したしたように、敬語は「醜い」方言と対置される「美しい」言葉遣いとされたわけだが、この伝統はこの一見寛容な「敬語の指針」に恩着せがましさの戦略として見事に見いだすことができる。また、世代や性によって異なる敬語の使い方についても、「敬語の使用の現状の規範に照らし」合わす必要性が説かれ、その規範というものは所詮言語的権威を付与された正統言語話者による恣意的な正統性の押し付けに他ならないのであるから、まさに「かりそめに」象徴的秩序を否定する恩着せがましさの戦略の面目躍如といったところであろう。
3.象徴的支配
以上の歴史的背景をもった言語市場の統一化は、人(agent)の言語活動の実践感覚にも影響を与えることとなる。つまり言語市場の検閲と訂正に絶え間なくさらされることで、ある言語生産能力とその知覚、評価に関する人の構え(disposition)が形成される。そしてそこでは、両親から相続する言語的資本(両親が方言話者なのか正統言語話者なのか)と学歴が大きな影響を及ぼすと考えられる。つまり、家庭において両親から、また学校において教師から言語的訂正を施されることによって、方言よりも標準語、若者言葉よりも「正しい」敬語を評価し、意識的・無意識的に標準語や「正しい」敬語を話そうとする性向が、人の言語活動の実践感覚に刻み込まれることとなる。しかしながら、ここで重要なのは、正統言語能力とは不均衡分配されており、ごく一部の話者のみが正統言語話者として認められるという点である。そしてこれとは逆に正統言語の正統性は教育やメディアによって広く認知されているため、正しい敬語を使用できることが言語的な資本として機能するようになるのである。従って、公式な場においては特に、「正しい」敬語を使えない人は自らの言語生産において過剰に訂正を施したり(それが正統言語話者によって過剰敬語であると批判されるのであるが)、自らの発話する言語表現が正統なものであるか自身がないためにマニュアル敬語のような「誤った」敬語を用いたり、沈黙を強いられることとなる。こうした性向はアンケートにおいて如実にみてとれる。
2 敬語に関する意識
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敬語の使い方に関して,困っていることや気になっていることを尋ねた。(幾つでも選択可。)10の選択肢のうち,性・年齢別に見て顕著な傾向が見られるものについて結果を示すと以下のとおり。 |
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(数字は%)
※小数第2位四捨五入のため,単純合計と一致しない。 |
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上は国語の施策に資するために国語審議会が平成16年度におこなった世論調査である[3]。この結果をもって、言語学者は正しい敬語の在り方を示すべきだと素朴に考えるわけだが、そこで真に問われるべきなのはなぜに多くの人がこのような傾向に傾いているかである。つまり人の言語的実践感覚は、階層化された言語市場という象徴的秩序に支配されているのであり、この支配の特筆すべき点は、被支配者の側にも共犯性を想定しなければ理解できないという点にある。そして上記で引用したアンケートにしても、それがどのような意図でもって作成されているのかは、今一度吟味されなければならないであろう。私ならば、この世論調査は一見国民の意見を問うという建前ながら、その実国民国家という国語の最大の擁護者によって造り上げられた、正統言語としての敬語の必要性を説くために行われているいわば出来レースと分析する。統計という科学的な手法によって、価値中立的な真実が得られるように考えるのはあまりに素朴といわざるを得ない。
以上簡単ながら、ブルデューの視点を援用しながら、既存の敬語研究と“社会学的”敬語研究の展望を述べた。あくまで試論的な段階にとどまる本論考ではあるが、既存の言語学的研究が自明とする前提がいかにして言語と権力そして支配―被支配の関係を不透明なものにしているか(いやむしろ隠蔽というべきなのかもしれない)は示せたのではないかと思う。今後はさらなるブルデュー社会学の敬語研究への応用可能性を模索していきたい。
〈参考文献〉
ブルデュー (1993) 『話すということ−言語的交換のエコノミー』 藤原書店
山下仁 (2001) 「敬語研究のイデオロギー批判」野呂・山下編著『「正しさ」への問い−
批判的社会言語学への問い』 三元社, 51-83
[1]原文にはフランス語読みがつけられていたがここでは省略した。
[2]
ブルデューはこの戦略を説明するために、ベアルン地方の式典に出席したポーの市長が公衆にベアルンの方言で話しかけ、それが新聞で「公衆をいたく感動させた」と報じられた事例を引き合いに出している。この例は、市長というしかるべき社会的地位にあり、正統言語話者として広く認知されている者が、正統言語としてのフランス語を話すのではなく方言であるベアルン弁で聴衆に語り変えることで、階層化された言語市場という象徴的秩序をかりそめにも否定することで利潤を得たという事態を示している。
[3] 文化庁ホームページよりhttp://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/yoronchousa/h16/kekka.html