画面表示のフォントを Arial Unicode MS に設定してください。

 

書評:福井県教育委員会編『白川静博士の漢字の世界へ』

 

 毎日新聞の「今週の本棚」欄(2011/03/20)で『白川静博士の漢字の世界へ』という本の存在を知った。この本は福井県教育委員会編の「小学校学習漢字解説本」で、本の帯には「福井県の小学生はこの本で勉強している!」とある。
 いくら白川博士が福井県出身者であるからと言って、福井県教育委員会も思い切ったことをするものである。販売を担当する平凡社の意向が強く反映しているのかもしれないが、県内にとどめず、本を市販して白川説を全国に広めようとするのであるからなおさらである。
 白川博士の字源学は字義と字形の関係に対する言語学的理解に欠け、語られる知見の多くは歴史言語学的方法論に基づいて真偽の検証を行うことが可能な論証ではない。博士が「私にとって、いかなる場合にも、語源は興味ある課題ではない」と、自らの研究の意義を否定するようなことを言われるのはその端的な現れである【文献3】。そもそも、「語=漢字の表現対象として切り取られた言語学的単位」という存在がなければ「漢字」も存在し得ない。白川博士はこの自明の道理に目をつぶっているのである。この点に関しては、すでに藤堂明保、高島俊男両氏に意を尽くした論評がある【文献2、5】。
 個人のレベルを超えた方法論の欠如は白川博士の逝去とともにその学問が消え去ってしまう可能性につながる。そのような方法論が提示されなければ、ある漢字の字源を研究して白川博士と同じ結論に達しえる保証はどこにもないからである。以下、このような事態が不可避であることを「左」と「右」を例に紹介してみよう。
 「左」と「右」の分析で問題となるのは「工」と「口」が何を表しているかという点である。手の左と右は、左図上の字体(甲骨文)が示すように最初は手の向きのみで表されていた。左図下の小篆に至ってもその特徴は維持されている。手の向きによってすでに左右が表わされている以上、新たに加えられた「工」と「口」の役割は、左右の区別を強調する象徴として働くことである。この推論は、後に手の向きが同じになり、「工」と「口」によってのみ左右が判別されるようになったことからも支持されよう。
 白川博士は「工」を「神をよび降ろす呪具」であると言い、「口」を「祝禱を収めた器サイ」であると言う。では、なにゆえに「左」が「ひだり」で「右」が「みぎ」なのかと言うと、巫が神の居場所を尋ねて舞う「神降ろしの儀」において、左手に「工」を握り、右手に「口」を持つからだと説く【文献3、173頁】。
 さて、ここから、巫が「工」を右手ではなく左手に持つのはなぜか、「口」を左手ではなく右手に持つのはなぜかという問題が生じてくる。もし「工」が、巫が目的をもって振り動かす呪具であるなら、右手に「工」を握り、左手に「口」を持つのがより自然ではないだろうか。この問いを揚げ足取りだとして無視することは賢明ではない。そういう疑問を抱く小学生は毎年必ずいるはずで、福井県教育委員会はそれに対する合理的な回答を準備しておかなければならない。
 中国語学において、「左」に含まれた「工」は一般に木工、石工の類の作業者として理解されているが、図案的には、作業に用いる代表的な工具でその使用者を比喩したと考えるのが妥当であろう。姜亮夫著『古文字学』は石器時代の「斧型工具」とし、さらに「かね尺」だとする説もある。人類は90%前後が生来右手を利き腕としており、生理学的に右手は事物の操作に適し、左手は事物の固定に適することが証明されている。木工や石工において左手に工具(例えばノミ)を持ち、右手でツチを打つ。これで「左」が「助ける」という意味になる理由がストレートに説明でき、白川博士の説明よりも合理的である。白川博士の説では、巫が神に助けを求めて舞うとき、左右の手に「工」と「口」が握られており、そこから「左」と「右」に「助ける」という意味が生じることになる。しかし、この論理では「左」と「右」ではなく、「工」と「口」にこそ「助ける」という意味が生じてしかるべきではないだろうか。
 なお、「工」と祈りの関係について言うと、「巫」に含まれる「工」が「玉」の略であることは広く認められている。しかし、それと「左」に含まれる「工」が同じものであるという論証は行われていない【図1】。
 「右」に含まれる「口」も「くち」と理解するのが自然であろう。「食事」を仲介させれば、右手と口に強力な関係を見出すことができる。「サイ」を右手に持つ必然性は認められない。しかし食物を「くち」に運ぶ手は、生理的にはもちろん、文化的にも右手であることが求められる。『説文解字』は「右、手口相助也」と説く。残念なのは、どういう行為において手と口が「相助」するのか、それが指定されていないことである。
 「左」と同様「右」も「助ける」を意味するが、それは右手が「操作する手」であることに由来する。「左」は裏方的に助け、「右」は積極的に助ける。この意味的な相違が「輔佐」と「保祐」という複合語に反映している。
 「尋」という字についても少し触れておこう。この字は「左=ヨ+工」と「右=寸+口」を上下に重ねて造られている。「ヨ」も「寸」も手である。白川博士の『字統』は「左右は神を祀るときの動作を示す字で、左には呪具の工をもち、右には祝禱を収める器の口(サイ)をもち、左右の手でたどりながら、神の所在を尋ねることを尋という」と分析する。
 一般には、「尋」の本義は周代の長さの単位(八尺)であり、両手を左右に広げた幅に由来するとされる。甲骨文字の字形もそのようにしか見えない【図3】。「捜す」や「調べる」という意味は後に生まれた派生義であり、それが「両手を左右に広げて測る」から来ていることは想像に難くない。逆に、「工」と「口」を打ち振る巫の舞から長度単位を合理的に導き出すことは困難である。舞の様々な所作の中から「左右の手をひろげて」のみを特に取りだすと言うのであろうか。以下に博士の『漢字百話』から関連箇所を引く(38頁、赤字引用者)。

尋は、たずねるという意のほかに、左右の手をひろげた一ひろの長さをもいう。左右の両手を連ねたその字形からも、その字義のもとづくところは明らかであろう。左右の手をひろげて、その袖をひるがえして舞う左右颯々の儀容は、神の来臨を求める舞である。

 「百話」というタイトルの書物である。語り口が多少文学的になるのは仕方ない。しかし、誰も見たことのない太

図1「工」「巫」、甲骨文。
図1「工」上;「巫」下。甲骨文。高明、涂白奎編著『古文字類編』増訂本、上海古籍出版社、2008年。以下同じ。
『角川新字源』、付録「度量衡」参考図。
図2『角川新字源』付録「度量衡」参考図。
甲骨文「尋」
図3「尋」。小篆(左上)と甲骨文。

古の舞の振付がどうして可能になったのか、「もとづくところは明らか」な字義がなぜ基本義として設定されないのか、そういう素朴な問題意識に対する検討がなされなくては先に進めない。

 以上、白川博士とほぼ同じ土俵で「左」と「右」の字源に関するいくつかの問題提起を行なってみた。もし筆者の問題提起(「結論」ではない)が成立するとすれば、それは冒頭に提起した命題、即ち、歴史言語学的方法論が提示されない以上、ある漢字の創作過程を分析して白川博士と同じ結論に達しえる保証はどこにもないという命題が成立することになる。換言すれば、白川博士の説かれる多くの「字源」が、あくまで博士個人の信念であるにとどまるのは、ひとえに博士の研究が歴史言語学の方法論から逸脱してしまったことによるのである。
 福井県教育委員会の努力には深く敬意を表する。しかし中国文字学という稀に見る伝統の上に立った学問分野にかかわる話である。内外の研究成果に十分目を向け、そこに提示された知見のみならず、それを導き出した方法論にも十分に留意し、異なる主張の優劣をしっかりと見きわめた上で編集に取り組んでほしいと願う。なんと言っても次代を担う子供たちの教育に関わることなのだから。

【付記1】迂闊なことに、金文の「左」には「工」の代わりに「口」や「言」が用いられた字形のあることに気づかないでいた。もし「ひだり」が「手+工」でも「手+口」でも「手+言」でもいいということであれば、「右」も実は「みぎ」でも「ひだり」でもよかったのだが、「ひだり」が「左」を選択したため、消去法的に「右」が「みぎ」になった。そんなことも有り得るかもしれない。もしそうだと、「左」による「相助」と「右」による「相助」はどう違うのか、このような疑問はナンセンスになる。
【付記2】近年、文献9のように、白川博士の説を学術的に再検討した研究成果が市販書の形で公刊されるようになった。歓迎すべき動きである。

参考文献:
1.小川環樹等『角川新字源』、角川書店、1968年。
2.藤堂明保「書評:白川静著『漢字』」、岩波書店『文学』、1970年7月号。
3.白川静「文字学の方法」、同氏著『文字逍遥』所収、平凡社、1987年。
4.白川静『新訂字統』、平凡社、2004年。
5.高島俊男「両雄倶には立たずーー白川静と藤堂明保の『論争』」、『ユリイカ』2010年1月号所収。
6.高明、涂白奎編著『古文字類編』増訂本、上海古籍出版社、2008年。
7.姜亮夫『古文字学』、浙江人民出版社、1984年。
8.宋均芬『汉语文字学』、北京大学出版社、2005年。
9.落合淳思『漢字の成り立ちーー『説文解字』から最先端の研究まで』、筑摩書房、2014年。