画面表示のフォントを Arial Unicode MS に設定してください。

 

孔子長九尺有六寸

 

 疑問というほどではないが、昔から気にかかっていることの一つに孔子の「九尺有六寸」という身長がある。『史記』の「孔子世家」は、

孔子長九尺有六寸,人皆謂之長人而異之。[注1]

と記す。当時の一尺は22.5cm に換算され、九尺六寸だとなんと216cmにもなる。[注2]もちろん、今でも「山東大漢」という言葉があるくらいだから、魯の国に生まれ、勇猛な武将の子と伝えられる孔子の身長が少々高くても文句はないのだが、2メートルをゆうに超えるとなると、素直には信じがたい。そのような身の丈と『論語』の中の孔子像がどうにも噛み合わないのである。『論語』からは、並はずれた記憶力と思索力をそなえ、無類の音楽好きで、粘着質タイプの几帳面な性格の男、そういう孔子のイメージが浮かび上がる。
 孔子の身長について、陳舜臣の『中国語の歴史』はなにも述べない。楊伯峻の『论语译著』もなにも述べない。中国の大学の古代漢語読本でも「九尺有六寸」は不問にされる。要するに、まじめに相手にするほうが可笑しいということなのである。孔子の身長は、異能に異形を配する中国古代の伝統の一例として笑ってすませ、ただ異形としてなぜ長身が選ばれたのか、この点だけを疑問とすればいいのだと思う。[注3]
 孔子の身長を推しはかるヒントを「孔子世家」の中で捜すと「孔子狀類陽虎」という一文がある。陽虎は魯の大夫季孫氏の家臣で、屈強、精悍、切れ者といったイメージの男である。「狀」であるから、顔つきと言うよりむしろ体つきのことであろう。出生から考えても、孔子が武人的体格を備えていたことは想像される。ただ残念ながら、陽虎の体格に言及がないため、これ以上のことはわからない。
 また、孔子は音楽に没頭して、ある曲から作者の姿が浮かび上がってきたことがあった。そのとき孔子は「周の文王でなければ、一体だれがこのような曲を作れると言うのか!」と叫んだのだが、作者は「色黒で、長身で、はるか遠くを見つめるまなざし」であった。孔子が見たこの文王の姿を、文王の世を再現しようとする孔子の姿に重ね合わせれば、長身の孔子ができあがる。[注4]
 孔子は前四七九年、七十二、三歳でこの世を去った。これは「人生七十古来稀」の古代においてはたいへんな長生きである。身長が2メートルを超えてなお長寿を得る人は現代においても珍しい。間接的ではあるが、孔子の長寿は「孔子長九尺有六寸」を否定する根拠の一つとなろう。
 古代中国において身長が「八尺=180cm」を越えることは大いに珍しかったようである。『史記』はしばしば「長八尺」という記録を残している。たとえば、劉邦と天下を争った項羽は「長八尺餘、力能扛鼎、才氣過人」と記録され、「滑稽列傳」には、「優孟、故楚之樂人也。長八尺、多辯、常以談笑諷諫」という記載が見られる。「張丞相列傳」では、張蒼の父親は「長不滿五尺」であったが、張蒼は「長八尺餘」の偉丈夫で、侯となり丞相となった。その息子も長身であったが、孫の代に至ると「長六尺餘」で「法に坐し侯を失う」と、あたかも身の丈と人生の浮沈が対応するかのような書き方をしている。
 時代は下って三国時代。『蜀誌』に諸葛孔明が「身長八尺」であったとある。孔明も大男であったか。
 上の話に関連するかどうか、古代中国においては、偉丈夫で眉目秀麗であることが男の徳目に数えられた形跡がある。『莊子』雜篇第二十九の「盜跖」は、群盗の頭目である盜跖が孔子を痛快淋漓、完膚なきまでに罵倒する話である。その中で孔子は、「私の聞き及ぶところでは、この世には三つの德があります。第一の徳は、生れながらにして偉丈夫で眉目秀麗なこと比類なく、年齢や身分を問わず誰からも喜ばれることです」と述べて、盜跖が身長八尺二寸(184.5cmで、顔の色艶がよく、真っ赤な唇と真っ白な歯、よく響く声の持ち主であることを称えている。ただし残念ながら、孔子自身の相貌については、孔子の口からも盜跖の口からも一切言及がない。[注5]
 偉丈夫が男の徳目に数えられるということは、男が立派な体格をしてなお大志を抱かなければ、非難されても仕方がないことになる。孔子が生きた時代、隣国の齊に晏嬰という名宰相が出た。その晏嬰の御者の妻の話である。

ある日、御者の妻は仕事から帰って来た夫に、いきなり「おヒマをいただきます」と切りだした。いぶかる夫に対して妻は答えた。今日、わたしは晏嬰があなたの御す馬車に乗って外出するところを目撃しました。晏嬰は「長不滿六尺」にもかかわらず、大国齊の宰相となって諸侯に名を馳せ、なお大志を深く蔵して腰を低くしています。ところがあなたは「長八尺」なのに人様の御者に過ぎず、しかもそれに満足し意気揚々としていました。それでおヒマをいただきたいのです。

 『史記』の管嬰列傳に見える話である。孔子の「九尺六寸」が高すぎるとすれば、晏嬰の「不滿六尺」はあまりに低すぎる。「不滿六尺」という形容は具体的な数字を言ったものではなく、「チビ」を言い換えたまでにすぎないと考えてよいであろう。

孔子立像(攝於臺北故宮博物院)

 話を我が国の文学作品に見える孔子の身長に移そう。井上靖の『孔子』は「長身の人物」と述べるに留める。中島敦は「弟子」の中で「身長九尺六寸といわれる長人孔子」と書いたが、そのことに特別の疑問を提起してはいない。「九尺六寸」は単に孔子が長身であったと言うにすぎず、事こまかに穿鑿する必要はないという態度である。ただ、長身と関係するのかどうか、中島敦は「子路の誇る武芸や膂力に於てさえ孔子の方が上なのである」と書いて、『論語』や『史記』からは窺い知れない孔子のイメージを作り上げている。なお、『弟子』における子路は『莊子』の盜跖をモデルにして具象化されているようである。孔子は盜跖を心服させることに失敗したのだが、もしそれが成功していればかくありなんという話が『弟子』に展開されており、盜跖は盜跖で、孔子が子路をたぶらかし衛の国で非業の死を遂げるに至ったと、口を極めて非難している。[注6]
 谷崎潤一郎の「麒麟」は伝聞口調ながら、孔子を「其の男は牛の如き唇と、虎の如き掌と、亀の如き背とを持ち、身の丈が九尺六寸あって、文王の容体を備えて居ると云う」と描くが、これは「麒麟」という作品自体が耽美誇張の世界であることによろう。「九尺六寸」はやはり孔子が巨躯の持ち主であったと言うにすぎない。谷崎は南子の口を通して「何と云う悲しい顔をして居るのだろう」と孔子を形容する。不惑は言うに及ばず、知命をも疾うに過ぎた孔子の横顔に、谷崎は悲しみを見出すのである。天命を知った君子にしてなお悲しみを宿すか。[注7]

 最後に蛇足を承知で言えば、現代中国語では「身長」と言わずに「身高」と言う。英語の height に対応する。しかし、出産時の記録には「身長」を用いる。いまだ直立しないからである。「身長」はさらに動物の「体長」としても用いられる。

[注1]「孔子は身長九尺六寸(約二二〇センチ)であったから、人はみな彼を長人と呼んで驚嘆した。」(小川環樹等訳『史記世家(中)』、岩波文庫青214-7)。『史記』は孔子九代目の子孫(漢代初期)にも身長九尺六寸の人物が出たことを記録している。
[注2] この換算率は『角川新字源』にもとづくが、吳承洛の『中国古代度量衡史』は、周代の一尺を19.91cmとする。これで換算すれば、「九尺有六寸」は191.136cmとなって、現実味のある長身に近づく。三省堂『漢辞海』は周代の一尺を18.00cmとし、司馬遷の生きた前漢の一尺を23.10cmとする。前者で換算すれば、孔子の身長は172.8cmに過ぎず、とても人が怪しむほどの「長人」にならない。後者で換算すればいよいよ高くなり、冒頭の疑問に返る。
[注3]白川静の『孔子伝』は「孔子は身の丈九尺六寸、人みな長人とよんでこれをあやしんだ(史記・世家)と伝えられる偉丈夫であった」と語って『史記』の記述を肯定し、また孔家七十七代の孔徳成氏の思い出を語り、「孔子を思わせるような偉丈夫のかたであった」と書いている。白川氏も孔子に「長人」のイメージを作っていたのだろう。
[注4]原文は「黯然而黑,幾然而長,眼如望羊。」「幾」は「頎」に置き換えて読む。
[注5]原文は「丘聞之,凡天下有三德。生而長大,美好無雙,少長貴賤見而皆說之,此上德也。」外見が第一の徳目であることが面白い。
[注6]禮記「檀弓上」には「孔子哭子路於中庭。有人吊者,而夫子拜之。既哭,進使者而問故。使者曰,醢之矣。遂命覆醢」と記されている。「醢之矣」は「敵方は子路を殺して塩漬けミンチにしてしまいました」という意味である。それを聞いた孔子は激しく反応し、家中の塩漬け肉をぶちまけさせた。
[注7]「麒麟」の描写は、孔子世家に見える「東門有人,其顙似堯,其項類皋陶,其肩類子產,然自要〔腰〕以下不及禹三寸」から空想を膨らませたものであろう。禹は孔子よりさらに背が高かったことになるが、禹は聖人である。孔子より身の丈を低くするわけにはいかない。