Zhou Jinbo 周金波


周金波小伝:

 1920年1月22日生まれ。小説家。台湾基隆出身。生後3年にして母に連れられ、日本大学歯科に留学中の父のもとへ行く。1923年の関東大震災で焼け出され、一時帰台。桃園・新竹・基隆の公学校(台湾人が通う小学校)を転々としたが、台湾語が良く分からないため、いじめられたという。その後、台湾の中学受験に失敗し、高等小学校へ進学。1934年、13才で再び上京し、日本大学附属三中に入学した。中学時代の友人には、婦人運動家の金子しげりの息子、金子欣太郎がいる。旧制中学から日大歯学科時代にかけては、豊富な仕送りを背景に、澤田美喜子の主催する七曜会に所属。観劇会、音楽会に参加したり、岸田国史が結成した文学座の第一期研究生になるなど、多彩な学生生活を送ったという。ちなみに女優の賀原夏子は、七曜会以来の同期生である。また、日大の文芸雑誌『暁鐘』を復活させ、ここに「吾輩は猫じゃない」という小説を発表している。後に『台湾文学』(1941年張文環らを中心に創刊)の同人になる王昶雄も、この時期に日大在学中であり、この雑誌に映画評を寄せていたといわれる。
 1940年、東京の下宿に送られてきた『文芸台湾』(1940年西川満らを中心に創刊)を手に取り、内台人作家がズラリと名を連ねた豪華な印刷に、周金波は、文学への関心と台湾への郷愁が沸き上がった。これがきっかけとなって、1941年春に日本大学歯科を卒業し帰台した後、基隆の父の歯科医院の歯科医となる傍ら、初めての小説「水癌」を執筆して同誌の正式同人となった。「水癌」は、日大での勉学および台湾での水癌患者の見聞をもとにして書き上げたものである。続いてエッセイ「湾生と湾製」を発表。文芸家協会劇作部理事として、青年劇の指導にあたったりもしていた。そして、西川満の示唆により、後に代表作となった「志願兵」や「『ものさし』の誕生」などの話題作を発表。1941年6月の台湾人志願兵制度の決定に応え、直ちに書き上げられた。この「志願兵」の成功により、第一回文芸台湾賞受賞、1943年の第二回大東亜文学者大会の台湾代表に選ばれるなど、当時を代表する作家となっていった。その後、「ものさし誕生」「ファンの手紙」「郷愁」の三作を『文芸台湾』誌上に発表し話題となった。
 演劇に対する関心は、戦後も「青天台語劇社」の創設(1953年)へと引き継がれる。二・ニ八事件(1947年の台湾人による反国民党蜂起)の際に、憲兵隊・警察に相次いで逮捕され拷問を受けたため、完全に文学活動から手を引いたと言われているが、映画「紗容之恋」の製作(1956年?)を手がけたり(実際のタイトルは「紗蓉」、1958年に上映)、『台北歌壇』に短歌を発表したりしていた。この短歌の一部は『台湾万葉集 中巻』(1988年)に収められている。しかし、日本の敗戦により「日本主義」から「中華主義」へと180度方向転換をした台湾では、「親日路線を走った作家」「正真正銘の皇民作家」と周金波に否定的な評価が下され、忘れられていった。その後、日本と台湾をまたにかけ、悠々自適の生活を送っていたが、1996年7月29日、台湾・基隆市にてリンパ癌で亡くなった。


参考文献:

中島利郎・黄英哲編 『周金波日本語作品集』 緑蔭書房、1998年
垂水千恵著 『日本統治時代の作家たち 台湾の日本語文学』 五柳書院、1995年
下村作次郎・中島利郎・藤井省三・黄英哲編 『よみがえる台湾文学−日本統治期の作家と作品』 東方書店、1995年
藤井省三著 『台湾文学この百年』 東方書店、1998年


 

映画 「紗蓉」、1958年上映
1956年頃の製作といわれる
西川満氏宅にて 昭和30年代
滋賀県彦根市にある周金波の墓

 


作品集・単行本:

中島利郎・黄英哲編 『周金波日本語作品集』 緑蔭書房、1998年
 

■小説/「水癌」「志願兵」「『ものさし』の誕生」「ファンの手紙」「気候と信仰と持病と」「郷愁」
「助教(情報課委託作品)」「無題」「辻小説・銃後の便り」「辻小説・第一信」
■随筆・その他/「喰人種の言葉」「湾生と湾製」「糞尿譚」「二つの方法」「ギ仔の弁解」「台湾文学のこと」
「年中歴・十二月 雨」「欣びの言葉」「ツア嫁のことなど」「受賞の感想(文芸台湾賞第一回受賞者)」
「停仔脚其の他」「鶏助」「私の好きな作品について」「皇民文学の樹立」「不言の内台一如−サクラヰさんを訪ねて」
「再認識」「斗六という街(派遣作家の感想)」「市民の闘魂」「てにをは教育」「人生の架け橋−日本における長女の場合」
■その他、短歌、講演記録、座談会など。
 

主な作品の内容:

■「志願兵」 /主人公の張明貴は、卒業を半年後に控えた夏休みに内地から3年ぶりに帰郷するが、伝統台湾的な考えの両親に反発し、留学生として八年ほど先輩の義兄に「内地と比べ、台湾が文化的に遅れている」と嘆く。そして公学校の同窓生で親友の高進六が報国青年隊に入り、日本精神の注入を目指しているのに対し、「皇民錬成」は神がかりでするのでなく、文化を内地と同様に引き上げることが先決と反対し、激論を戦わす。その10日後の朝刊で、高進六が小指を切り、血書を書いて志願兵の志願書を書いたことを報じる。張明貴は、義兄に「進六こそ台湾の為に台湾を動かす人間だ。僕はやはり無力だ。頭でっかちだ。これから僕は僕の叩き直しをやるんだ」と告げる。


作成:朝日恵子