Wú Zhuóliú 濁流
(1900-1976)


呉濁流小伝:

 本名は呉建田、字は饒畊。台湾の新竹出身で、原籍地は広東省の蕪[山令]。1920年に新埔公学台湾総督府国語学校師範部を卒業し、その後小学校の教員になり、苗栗詩社、大新詩社に参加した。1936年以降、《水月》、《泥沼中的金鯉魚》、《功狗》等の小説を次々に発表していった。1940年、彼は郡督学校が教員を侮辱したことに対して、教員をやめた。1941年、南京に行き《大陸新報》の記者になり、1942年に台湾に帰った。1943年には《亜細亜的孤儿》という長編小説を書き始めた。1944年以降は、《日日新報》、《台湾新報》、《新生報》、《民報》の記者を務め、1947年以降は、台北市の大同職業学校、機器工業同業公会、台湾の《文学》という季刊誌等で務めた。《陳大人》、《先生媽》、《波茨坦科長》、《狡猿》、《幕後的支配者》、《老姜更辣》等の小説を発表した。1964年、《台湾文芸》という雑誌を創刊した。1969年には自分の田畑を売り払い、『呉濁流文学奨』を設立した。生涯、写実主義を主張し続け、早期の作品の多くは日本侵略統治時代における台湾人民の不幸を描写し、日本植民統治思想奴化政策の一部の台湾知識分子に対する殺害を暴露した。1945年に完稿した《亜細亜的孤儿》は、抗日思想の発展と生活に目覚めた知識分子の心を如実に描写している。再建後の作品は、暗黒社会と官僚の腐敗への戒め含んでいた。彼は、その作品の強烈な社会性、濃厚な郷土色彩、深刻な風刺力をもって有名になった。
 


呉濁流、本名呉建田。新竹県新埔鎮出身。日本占領下において公学校の教師、「訓導」を務めるが、1940年に日本人視学官(学校教育を視察・監督する官吏 中日辞典(小学館))が台湾籍教師を侮辱したことに激して辞職する。1941年単身「祖国」に赴き南京の『大陸新報』の記者となる。1942年に台湾に戻り、『台灣日日新報』の記者を務める。戦後『台灣新生報』の記者、編集者、省社会処科員(???)、大同工職訓導主任(???)、台湾機器工業同業公会専員などを歴任する。

 呉濁流の主な著作に『亞細亞的孤兒』『功狗』『波茨坦科長』『南京雜感』『黎明前的台灣』『台灣文藝與我』(以上は「濁流作品集」張良澤編に集められている)、『無花果』『台灣連翹』がある。その内、『亞細亞的孤兒』は第二次世界大戦末期に完成された長編小説で、台湾人の歴史的宿命を明確に提示した最初の作品であり、台湾文学の経典と言える作品の一つである。また、「」は発禁となったため、長期にわたり地下文学として伝えられた。『』は遺言により死後10年たってから出版された。

呉濁流は戦後台湾文学の発展における要の人物であり、彼の重要な貢献として、1964年に創刊された雑誌『台湾文藝』は現在に至るまで出版されており、台湾作家のイデオロギー的トーチカ となっている。また、もう一つの重要な貢献として「呉濁流文学賞」があげられるが、これは退職金により設立されたもので毎年授与され、後進の台湾作家を奨励している。  

 (『台灣作家全集・短篇小説卷/戰後第一代 吳 濁流集』 前衛出版社 1991年)


作品集・単行本


邦訳

『夜明け前の台湾 植民地からの告発』社会思想社 1972
『泥濘に生きる 苦悩する台湾の民』 社会思想社 1972
『アジアの孤児 日本統治下の台湾』新人物往来社 1973

作成:濱川絵里子・池上里子