Zhang Ziping 張資平
(1893−1959)


張資平小伝:

 小説家、地質学者。原名張星儀、また張声とも。広東省梅県の人。幼くして広益中西学堂、両広高等警官学堂で学ぶ。辛亥革命の後日本に留学する。1914年日本の東京第一高等学校に入る。1915年に九州の熊本第五高等学校に転入。1916年丙辰社(中華学術社の前身)に入る。1919年東京帝国大学理学院地質学科で学び、同じ頃文芸創作に従事する。1920年『冲積期化石』『愛之焦点』『上帝的児女們』等の小説を次々に発表し、写実主義と人道主義に傾いた表現をする。1921年創造社設立に発起人として参与。1922年帰国し、広東蕉山嶺砿山技師をしながら引き続き文芸創作に従事。1924年中編小説『苔莉』を発表。同年湖北武昌師範大学に赴任、武昌第四中山大学教授になる。1926年北伐軍が武漢にきた後、総政治部国際宣伝局少校の通訳をする。1928年上海に行き、新宇宙書局編集者、曁南大学教授をつとめ、楽群書店を主催し、『楽群月刊』を創刊。数多くの三角関係・多角関係の恋愛小説を描き、品格を落とした。1934年汗血社主催の『国民文学』主編集長になり、民族主義文学の主張、宣伝をする。抗戦が起こったのち、広西大学冶金学研究科で教える。1940年汪精衛の南京政府農鉱部技師の任務につく。1941年『中日文化』の編集長になる。抗戦に勝利したのち、国民党司法当局に監禁、起訴されてから、保釈。1948年前後『隔叶黄[麗鳥]』『焼弦風雨』などの伝記文学作品を創作。建国後は編集・翻訳の仕事に従事、修訂『実用鉱物岩石学』『化工大全』などの自然科学の著作がある。


略年譜

1893
広東省梅県に生まれる。

1897
父から『論語』を教えられ、8歳で学習終える。

1901
春、本村の私塾に入り勉強する。

1903
中退して家に戻り、父から『春秋左氏伝』を教わる。

1904
父が開いた私塾で勉強。

1906
春、広益中西学堂に入り勉強する。

1909
夏、広益中西学堂卒業。

1910
春、東山師範学校に入り勉強するが、嫌気になる。9月、高等警察学校を受験、合格し入学。

1912
高警を卒業しないまま、官費留学生となる。夏、日本へ。9月、横浜到着、同文書院に進学。

1921
7月、郭沫若、郁達夫、成[イ方]吾と創造社を結成。

1922
2月、長編小説『冲積期化石』を秦東図書局より出版。3月、短編小説『[女也]悵望着祖国的天野』を『創造季刊』1巻1期に発表。日本から帰国し、かつて招聘を受けた武昌に行き中山大学地質学科の主任を2年したのち、辞職して上海へ行き、創作に専念する。

1926
2月、短編小説『約伯之泪』を『東方雑誌』第23巻4号に発表。短編小説集『不平衡的偶力』が商務印書館から出版され、中編小説『飛絮』が創造社から出版される。

1927
長編小説『苔莉』『最後的幸福』が創造社から出版。

1928
小説集『蒄拉梭』が創造社から出版。

1930
訳書『文芸新論』が上海連合書店より出版。専門著書『欧州文芸史網』が上海第一出版社より出版。

1932
最後の長編小説『時代与愛的岐路』が『申報』の文芸欄『自由談』に連載され、社会世論の批判を受けて創作を中断。以後、次第に文壇から鳴りをひそめる。

1933
翻訳小説『襯衣』が上海光華書局から出版。『張資平小説集』(三冊)が現代書局より出版。『資平自伝』が上海第一出版社から出版。

1937
七・七事変(ろ溝橋事件)後、公然と日本に投降、国賊文人とされる。

1959 死去。

『中国現代重要作家生平著作年表』



作品集・単行本

『冲積期化石』上海書店 , 1986. --
『愛之焦点 』上海書店 , 1989. --
『上帝的児女們 』光明書局 , 1931 --
『張資平小説選』花城出版社 , 1994/28.80元

 

参考書



 『張資平――人生的失敗者』
  鄂基瑞・王錦園/著
  復旦大学出版社
  1991.7/3.35元





  作成:姜知美