劇作家、散文家。本名は沈乃熙、字は端軒、浙江省杭州出身。小学校卒業後、進学できず杭州泰興染坊で一年間学徒をした後、浙江省立甲種工業学校染織科で学んだ。
1919年五四運動に参加、進歩的な出版物、《双十》(後に《浙江新潮》と改名)を編集、宰白というペンネームを使って文章を発表した。
1920年その学校を卒業すると、日本へ公費留学し、福岡明治専門学校電気課で学んだ。留学期間は積極的に日本労働者運動や、左翼文芸運動に参加した。
1927年に指名手配され、帰国、同年7月上海で中国共産党に参加、労働運動に従事し、外国文学作品を紹介し始める。1929年ゴーリキーの著名な小説《》を翻訳し、その年馮乃超と鄭伯奇らと 芸術劇社を組織、《芸術》、《沙侖》を編集、監督した。同年冬、左翼作家連盟を執行委員に任命され、国際左翼文芸団体関係の仕事をまかされた。それからまた田漢らとともに左翼演劇連盟を興し、リーダーの一人となった。
1932年明星電影工司演劇編集顧問を担当し、1933年左翼電影小組長。この期間に《狂流》《春蚕》《脂粉市場》《上海二十四小時》《女児経》《圧歳銭》《自由神》など映画の脚本や多くの映画評論文。同時にソ連の《電影導演論》映画脚本《生路》などを翻訳した。
1934年話劇の創作を始め、一幕劇《都会的一角》《中秋月》、多幕劇《賽金花》《秋瑾伝》《上海屋檐下》などを書いた。
1936年労働者悲惨な生活を描いたルポタージュ《包身工》を書き、強烈な反響を呼ぶ。抗日戦争 が勃発してから、上海、広州、桂林、香港で《救亡日報》《華商報》《南僑日報》などを編集し、中共南方局重慶事務所文化組織の副組長、《新華日報》の特約評論員を務め、大量の散文や政治論文、随筆などを書いた。前後して、《心防》《法西欺細菌》など話劇の脚本を書いた。建国初期には中国共産党の上海市常任委員、宣伝部長、文化局長、文芸連合会主席などを務めた。
1954年から文化部副部長、対外友好協会副会長、全国文芸協会副主席などの職を歴任した。そのころ《祝福》《林家鋪子》《革命家庭》《烈火中永世》などの映画脚本を編集し、話劇《考験》を書き、大量の文芸理論と評論文を書いた。
1977年から全国政治協会常任委員、全国文芸協会副主席、中国映画協会主席、中国作家協会顧問を務め、回顧録《懶尋旧夢録》。その作品はそれぞれの時代、それぞれの階級での生活に触れており、構造は簡潔明快で、言葉は美しく自然である。話劇や映画の創作と映画理論研究の方面では大きく貢献している。
『欧州近代文芸思潮論』、(日本)本間久雄著、開明書店、1928年
『恋愛之路』
『母親』長編小説、ゴーリキー著、大江書鋪、1929年
『賽金花』劇本、上海生活書店、1928年
作成:神崎麻里子