Tian Jian 田間


田間小伝:

‘時代の鼓手’と称される詩人田間は、幼名を童天鑑といい、1916年5月に安徽省無為県開城橋鎮に生まれた。幼い頃より農村にて勉学に励み,『詩経』などの古典文学の影響を受け,詩歌に強い興味を覚えた。中学、高校時代には新文学作品を愛読し,詩歌創作も始めた。1933年には上海光華大学にて学び,次の年に上海で‘左聯’に参加,『新詩歌』や『文学叢報』の編集活動を行った。魯迅先生が『文学叢報』に『答托洛斯基派的信』等の重要な著作を発表したことは,彼にとって何よりの喜びであった。この時期,田間は相次いで『未明集』、『中国牧歌』、『中国農村的故事』等の詩集を出版した。この一時期の詩作はほとんど農村生活を主題としたもので,帝国主義と封建主義の過酷な搾取のもとの広大な農村の困窮と,農民の苦しみと反抗を描き,彼の憤懣と同情を表現している。この時期の彼の詩作には濃厚な生活の息吹が感じられるが,思想性と芸術性が一致するまでには至っていない。国民党反動派は文化の“包囲討伐”のなかで,このようないかにも未熟に見える作品ですらも見逃すことはせず,これらを“禁書”とし,田間自身も手配された。危機を脱するため,彼は1937年の春,日本の東京へ行き,そこでペテ−フィ、バイロン、マヤコフスキ−らの作品に触れた。後に彼はこの時期の生活を回想しこう述べている。「当時,マヤコフスキ−に関する論文を読んだことがあり,詩がどのように広場に至るか、詩がどのように“羅斯塔之窓”に存在するかなど,その革命精神が私を引き付けました。これは我々が後に(1938年8月)延安で街頭詩運動を行ったことと関係があります。」(『「給戦闘者」重印補記』)どうやらこれらの著名詩人は田間の以降の創作に大きな影響を与えたようである。
 田間が“太鼓を打つ詩人”という戦闘姿で詩壇に現われたのは抗日戦争が始まって以後である。1937年,芦溝橋での砲声が中華民族を震撼させた。党の呼びかけと指導の下,人々は共通の敵、日本軍の侵略に反抗し,激しい抗日戦争が巻き起こった。戦闘の砲火は、詩人の愛国心に火をつけた。彼は東京に来て数ヶ月で祖国に引き返し,偉大な民族解放戦争に参加した。彼は上海から武漢まで、また武漢から普東南臨汾まで八路軍の“西北戦地服務団に参加し,戦地の記者を務めた。これより彼は党指導の偉大な革命の中に身を投げ、新しい生活が始まり,また,新しい創作の道を歩み始めた。
 田間の抗日戦争初期の詩作の多くは,『給戦闘者』という詩集の中に集められている。この詩集のなかで彼は力強く戦いの歌い,人々に民族解放の戦場に赴くように呼びかけている。また、単に呼びかけるだけでなく、熱情的な賛歌をそこに伴っている。‘戦闘’が彼のこの時期の詩作の基調である。この詩集の中で有名な詩編は『中国的春天在鼓舞着全人類』、『自由,向我們来了』、『給戦闘者』、『多一些』、『一杆槍和一個張義』、『曲陽営』などで、その中でも,『給戦闘者』の影響は大きく、この戦闘に対する情熱あふれる詩編は,詩人が1937年武漢において一晩で書き上げたもので、彼の創作の新しい発展を示している。一人の独創性のある戦う詩人として常に人々の注意を引くだけでなく、大きな影響力を持つようになったのは『給戦闘者』を発表した後である。詩人は『給戦闘者』は一つの‘呼びかけ’であると述べている。「祖国と自分自身に向けて呼びかけ、民族のラッパと共に前進するのだ。」(『給戦闘者』の末項より)真摯で強烈な感情、またそのテンポの速い太鼓を打つようなリズム、高らかな調子、豊富な表現手法によって、彼の詩は抗日戦争初期において非常に影響力のある政治叙事詩となった。
 1938年春,田間は“西北戦地服務団”とともに革命の戦地−延安−に到着した。8月,彼は何人かの同志と一緒に街頭詩運動を始めた。これは詩人達が詩歌でもって抗戦に参加し、大衆的な詩歌を作るという始めてのこころみであり,人々に大きな影響を与えた。街頭詩は非常に速いスピ−ドで,延安から各抗日根拠地に波及した。後に田間は街頭詩が盛況を極めていた頃のことを述懐してこう述べている。「詩が発表されるとすぐに多くの紅纓銃を持った自衛軍の人々が壁の側に立って詩を読んでいました。」(『写在「給戦闘者」的末項』)「我々は前線に赴く道中や、大きな岩石を見つけたとき、あるいは敵が焼いた村落、建物などにも詩を書き,それを書きとめさせました。このような情景は今でも忘れることができません。」(『幾次探索』)田間の街頭詩の中で著名なものには,『假使我們不去打仗』、『毛沢東同志』、『義勇軍』、『呵,遊撃司令』、『給飼育員』、『鞋子』、『選挙』、『堅壁』、『多一些』などがある。これらの街頭詩は質素で明白な言葉でもって人々に侵略者日本と戦うことを呼びかけており、大きな戦闘扇動の作用を発揮している。聞一多先生はかつて田間を“時代の鼓手”と褒め称えた。
 1938年8月,田間は中国共産党に入党した。年末には“西北戦地服務団”について普察冀辺区に赴き引き続き戦地記者を務め,辺区文協成立後は副主任に就いた。1942年の毛沢東同志の『在延安文芸座談会上的講話』の発表は革命文芸運動の道標となり,田間の思想や創作にも大きな影響を与えた。“群衆とともに”というスロ−ガンに呼応するため,1943年以降彼は最下部の組織で党委員会と大衆に対する工作に従事し始めた。相次いで盂平県委員宣伝部長、雁北地委員秘所長、宣伝部長、張家口市宣伝部長、冀普区党委員会の『新群衆』雑誌社社長に就任し,土地改革に参加した。農民革命の嵐と,実際の仕事をすることによる鍛練は、彼の思想感情に大きな変化をもたらし,詩歌の創作も盛んになった。この時期の詩作では,抗戦初期の旺盛な政治的情熱を持ちつづると同時に,内容はさらに充実しており,濃厚な生活の息吹と,すがすがしい土の香りとを伴っている。この時期の詩作は主に『抗戦詩抄』と『短歌』の中に(後に『誓詞』に組み込まれる),長詞は『抗戦詩抄』,『戎冠秀』、『gan車伝』(第一部)に収められている。これらの作品の主題を抗日初期のものと比べてみると明らかに違いが見られる。これらの作品は革命根拠地の“新しい人物、新しい世界”を表現することに力を入れている。彼は詩の中で旧社会を告発し,解放に対する喜びを歌い,(『換天録』,『翻身歌』など)戦いの英雄や模範人物を称え(『小叙事詩』、『英雄謡』)、指導者や一世代上の無産階級革命家に対して賛歌を送っている。(『毛沢東』,『名将録』)
 1949年の第一次全国文代会において田間は周恩来総理の熱烈な激励を受けた。この後‘本職’に戻り,中国作家協会党組成員、創作部副部長、文学講習所主任、『詩刊』編集委員などを務めた。彼は指導者となりしばしば各地を訪れた。彼の足跡は中国大陸のほとんどの地に見ることができる。一面氷に閉ざされた北方から、百花咲き乱れ、枝葉の茂る南方まで,また果てしなく広い内蒙古の草原から、戦闘の東海の浜まですべて詩人の足跡が残されている。偉大な抗米援朝戦争の中で田間は2度戦場に赴き,最も慕うべき中国人民志願軍の兵士たちと日夜を過ごした。1945年,平和と友好のため,彼は相次いで東欧各国を訪問した。豊富多彩な生活は彼の詩作の題材の幅を広げ,彼の詩に新しい養分を注いだため,彼の創作に多大な影響を与えた。解放後の17年間では,長詩『gan車伝』の第2部から第7部までの他に『長詩三首』、『英雄戦歌』、『短歌』,『汽笛』、『芒市見聞』、『馬頭琴歌集』『天安門賛歌』、『東風歌』,『英雄歌』、『太陽和花』、『誓詞』、『田間詩抄』、『我的短詩選』などの創作を行った。このほか,詩論集『海燕頌』、『新国風賛』,及び散文集『板門店紀事』、『欧遊札記』などを出版した。このような莫大な創作量は当代の詩人の中ではまれである。これらの作品を貫いている主題は“新世界”である。かれの筆は社会主義革命と建設の各分野に触れており,忠実に祖国の歩みを記録し,雄壮で美しい賛歌を作曲している。
 『gan車伝』は彼の長編叙事詩の代表作である。この第一部出版は1946年で,残りの六部は建国後に書かれたものである。彼はこの壮大な歴史絵巻きを通して党の指導の下の中国農村の大変革と新しい人材の成長を表現している。長詩の主人公石不爛は時代の流れに乗じて真っ直ぐに共産主義へと向かう。これこそがこの長詩が表す主題である。芸術面においてこの作品は新しい業績をあげた。壮大壮麗な内容を表現するために彼は形式にこだわらないよう努力し,多くの民謡の表現手法(比興、反復、繰り返し)や民衆口語、よく響く音韻、激しく揺れ動く情緒、飾らない言葉を取り入れ,五、六言体の明るく素朴で民間歌謡の趣あふれるものを多く採用した。全体から見ると,長詩上巻の言葉は比較的よく練られており,芸術感化力が更に強くなっている。
 田間は無産階級革命の情熱的な歌い手であるだけでなく,新しい詩の形式にたいする勇気ある探求者でもある。抗日戦争初期,彼は太鼓を打ち鳴らす詩人として詩壇に登場した。怒り、動揺する時代の特徴、戦闘的な生活内容は,し烈な感情の花火である詩を射て,早くて短いリズム間のある旋律は彼の,豪放雄壮、質素でたくましい芸術風格を作り上げた。1938年延安に到着すると,彼の詩風には変化が起こった。民衆生活闘争触れ、溶け込む機会を得て,彼は意識的に民歌や大衆創作を学んだ。多くの大衆口語を詩の中に取り入れたことで彼の詩は更に魅力的な民歌風の色彩を帯び,詩の芸術的風格はさらに素朴で平易な,飾り立てないものとなり,民族化、大衆化の方向へと向かった。解放後の詩作と抗戦初期の太鼓をたたくような詩句には大きな違いが見られる。彼は古典詩歌や民歌を学ぶことに努力を傾け,大胆な試みを行って良い結果を収めた。しかし、まさに試みの途中であるがゆえに一部の文章はわかりにくくなっているのも,前に進む中で避けられない現象である。
 十年にわたる動乱の中,田間も他の詩人と同じように迫害、陵辱を受けた。1970年、彼の『gan車伝』は“劉少奇を美化し,間違った路線をたたえ”る人民にとって有害な作品であると非難、中傷を受けた。“四人組”打倒の後,この優れた長詩はやっとふたたび日の目を見ることとなった。彼の『給戦闘者』は1978年に再版された。周総理を記念する詩集『清明』もすでに出版され,『田間詩選』(五十年的選集)及び『雲南行』(長詩三首及び雲南についての短詩合集)も続いて出版された。
     (『中国当代名作家小伝』 何火任主編 1990年6月北京第一版 文化芸術出版社)
 
作品集
『未明集』初版本 1935年 上海詩人社
『中国牧歌』初版本 1936年 上海詩人社  
『給戦闘者』 1943年 桂林初版11
『gan車伝』 1949年 新華書店刊7
『抗戦詩抄』(1938〜45の作) 1950年 新華書店刊1
『給戦闘者』(重印本) 1954年 人民文学社刊6
『馬頭琴歌集』 1957年  中国青年出版社 12
『天安門賛歌』 1958年 北京出版社刊4
『海燕頌−詩論一束−』 1958年 北京出版社刊12
『長詩三首』上・下 1958年 作家出版社刊
『誓詩』 1959年 上海文芸出版社刊1
『東風歌』 1959年 作家出版社刊1
『火花集』 1959年 天津・百花文芸出版社刊3
『英雄歌』 1959年 上海文芸出版社刊5
『田間詩抄』 1959年 人民文学出版社刊8 

作成:大鍋 真衣

                                
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


邦訳

『』(訳) 書店
  

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