Qu Qiubai 瞿秋白(1899〜1935)


瞿秋白小伝:

  中国無産階級革命家、中国共産党初期の指導者、中国新文学運動の重要人物、マルクス主義文学理論家、翻訳家。
江蘇常州生まれ。1917年北京露文専修館に入り,新思潮の影響を受け,プーシキン、ゴーゴリ、トルストイなどの人物の作品の翻訳を手がけ始める。五四運動時には,積極的に学生運動に参加し,また指導にあたった。1919年11月,鄭振鈬、耿済之などと<新社会>旬 刊を創設し、革命的民主主義思想を宣伝した。その出版物は軍閥統治者によって差し押さえられた後、1920年8月に鄭振鈬とかと月刊『人道』を創設しあくまで新思想を主張した。それと同時に、李大釟の指導するマルクス学説研究会に参加し、初歩的な社会主義思想を受け入れた。1920年10月北京の『朝報』という記者の立場で、ソ連視察にいった。1922年モスクワで中国共産党に入る。この期間、初めて社会主義共和国の最新の社会生活を紹介する散文を数多く書き、『露郷紀程』、『赤都心史』の二つの文集を別々に受け入れた。その文章は、厳粛な思索と情熱的な叙述が合わさって、そのスタイルも、荘重であり清新である。1923年帰国し、中共中央機関刊行物の『新青年』という季刊の編集の仕事を担当し、エッセイ集『文芸雑著』を出版した。同年6月、中国共産党第三回代表大会で中央委員に選出され、主編党の機関刊行物『前鋒』という雑誌、『向報』という週刊誌の編集の責任者となり、上海大学社会科学学部の主任をも兼任した。1927年大革命失敗後、党中央のリーダーの仕事を担当したことがあった。その後中央駐在のコミンテルンの代表となった。1930年帰国し、その翌年上海に行き療養している間、魯迅とかと左翼文芸運動を指導した。中国新文化を打ち立てるため、傑出の貢献を作り出した。この季刊、マルクス主義文芸理論の翻訳に力を入れ、マルクス主義文芸論文集『現実』の翻訳編集をし、さらに『ゴーリキー論文選集』、『ゴーリキー創作選』、ガラタハフの短編小説『新土地』、プーシキンの長詩『茨岡』、ルナチャルスキー脚本の『解放したドンキホーテ』等のロシア文学の名作を翻訳した。これらの理論と創作の訳著は中国文芸界の実際と密接に結合していて、左翼文芸運動の発展において、理論上の誤りを克服することは、力強い推進力となった。「自由人」と「第三種人」との論争の中で相次いで、『「自由人」の文化運動』、『文芸の自由と文学者の不自由』などの論文を発表し、誤った論調に反駁し、文学の階級性と作家は超えれない階級の原理を解き明かした。「民族主義文学」と「新月派」の胡適とかの人について、幾度も著作批判を行った。さらに積極的に大衆文芸運動を主張し、中国文学の改革問題と翻訳問題を詳しく討議した。1993年『魯迅雑感選集』を編集し、長編序文を書き魯迅思想の特徴およびその発展の経過を深く論述し、魯迅エッセイの思想意義を正確に評価した。中国現代文学史上初めて大体において魯迅思想にマルクス主義と合致する分析を行った。1934年1月瞿秋白は中央解放区に行き、中央工農民主政府委員と人民教育委員に選ばれ、さらにソビエト大学の校長を担当し、ゴーリキー演劇学校を創設して文化芸術幹部を育成した。1935年2月28日紅軍とつれそって福建汀州を通りかかったとき、国民党軍に逮捕され、同年6月18日、福建長汀で勇敢に正義のために死んだ。その後、魯迅は瞿秋白のために整理して『海上述林』、『街頭集』、『論中国文学革命』などの本を出版した。現在残っているのに『瞿秋白文集』、『瞿秋白選集』、『瞿秋白論文学』がある。

                                               『中国現代文学辞典』 華岳文芸出版社、1988年12月第一版)



作品集・単行本
瞿秋白文集 / 瞿秋白著 -- 人民文学出版社 , 1953. --

邦訳

五・四文学革命集 / 増田渉編 -- 平凡社 , 1963. --
  

作成:平川 直希