Liu Na'ou 劉吶鴎
(1900−1940.9)


劉吶鴎小伝:

 本名は劉燦波、筆名に洛生、鴎外鴎などがある。台湾の台南の人。日本で育ち、東京の青山学院や慶応大学の文科で学んだという。1925年卒業後、上海の震旦大学に入り、杜衡、施蟄存らとフランス語特別クラスで学ぶ。1928年、第一線書店を創設、閉鎖処分を受けた後、翌年、水沫書店を創設。「マルクス主義文芸叢書」を出版、自らも『芸術社会学』や日本の新感覚派小説を訳す。また同書店から出版した『無軌列車』『新文藝』などの雑誌に、躍動するリズムとモダニズムの手法で都市の享楽を描いた小説「遊戯」「二人の時間の不感症者」などを書き、1930年には『都市風景線』にまとめた。『映画リズム簡論』のような論文も書いている。上海事変以後日本に渡り、1939年には汪精衛政府に身を投じた。同年、上海で同政府による『文匯報』を出版する仕事をしているときに、刺殺される。穆時英とともに新感覚派の代表作家と見なされている。 

(『中国現代作家大辞典』新世界出版社 1992)


 1940年9月初め、松崎啓次は、記録映画『珠江』製作の徒次立ち寄った芸術映画社の石本統吉監督と助監督の八名(やな)正(後に映画倫理規定審査員)を福州路の京華酒家に招いて、昼食をともにした。中華電影から劉吶鴎、黄天始・黄天佐兄弟が同席した。
 珠江というのは、下流の大デルタ地帯に広州を擁する南支第一の大河である。黄兄弟が広東省の出身なので、撮影にかかる前に広東の事情を聞くのが会合の主目的だった。
 それから起こったことを、現在なお存命の八名氏は次のように語ってくれた。
「話が一段落して、二時ごろ、劉吶鴎が『用事があるから』と、一足先に二階の部屋を出るとまもなく、数発の銃声と悲鳴が聞こえた。私たちは驚いて部屋を飛び出し、ロビーから下を見ると、劉が階段の下に倒れて、人だかりがしている。居合わせた人たちの話によると、階下のテーブルで待ち伏せをしていた中国服の男が、階段を降りて来る劉めがけて、いきなりピストルを連射し、すばやく逃走した。すぐに救急車が来て、運ばれたが、手当ての余地なくほとんど即死だったと聞いている」(八名正談)
 この年の10月27日に重慶で、国民党文化工作委員会が開催された際、抗戦救国の闘士である史東山監督は、スピーチの最後を次の言葉で結んだと伝えられている。
「われわれ映画製作者の中から祖国を売る反逆者が続出しつつある。反逆者の代表として、劉吶鴎はわれわれの手で射殺された。このことは、反逆者どもに対する厳しい教訓となるであろう」
 劉吶鴎(別名、劉燦波)は1901年、台南の裕福な家に生れた。そのころ、台湾は日本の領土だったから、国籍は日本である。東京に来て、青山学院に学び、上海に渡って、復旦大学でフランス文学を専攻した。中・日・英・仏の四か国語に堪能で、横光利一・川端康成らの新感覚派文学の紹介から文壇に出て、彼自身も小説や詩を書くようになった。
 映画にも興味を持って、雑誌「現代電影」を創刊、反帝国主義のイデオロギーが幅をきかす映画界の風潮に反発して、純粋な映画美の擁護を主張した。『永遠的微笑』(呉村監督)のシナリオを手がけ、中華電影の企画部長黄天佐とは事変前、国民党の映画機関、中央電影摂影場における“同期の桜”で、『密電碼』は彼がシナリオを書き、黄と共同で監督した。その後、“孤島”でも『初恋』を監督している。
 また水沫書店という出版社も経営し、新聞社にも関係を持つなど、その活動は多彩をきわめた。これほど幅広い才能の持ち主だけに、野心満々、“孤島”を離れて、中華電影に接近したことがテロの悲劇を呼んだのであろう。
 彼と親しい間がらにあった黄天佐は、この事件の後、テロの恐怖におびえきっていたということを、後日私は、黄の身近にいた企画部の社員から聞いたが、幸い犠牲者は劉吶鴎一人にとどまった。

(清水晶『上海租界映画私史』新潮社1995.11)


作品集・単行本

『都市風景線』

水沫書店
 1930.4/1-1500/0.5元

上海書店影印
1988.12/1-5000/2.10元
遊戯/風景/流/熱情之骨/両個時間的不感症者/礼儀和衛生/残留/方程式
『劉吶鴎小説全編』
学林出版社 1997.12/11.50元

邦訳作品

「礼儀と衛生」さねとうけいしゅう/訳 『中国文学』


参考文献

『上海租界映画私史』清水晶/著 新潮社1995.11



作成:青野繁治