老舎小伝


 

本名は舒慶春、字は舎予と言い、北京人で満族である。1899年2月3日、北京の貧民家庭に生まれる。父舒永寿は清代の宮城の護衛軍の一人で、毎月の給料は少なかった。老舎は末っ子で、姉が3人、兄が一人いた。

1900年8月、八箇国連合軍が北京に侵入した時父は戦死した。それから一家全員母親の馬氏を頼って衣類を縫ったり、洗ったり、小学校で雇い人になったりして生活を支えた。老舎は幼い時は憂うつげで、活発ではなかった。彼はかつてこう書いたことがある:性格は母親の影響を強く受けている。彼女は餓えようともおかまいなしで、同時に他人に対しては男気のある人だった。

7歳のとき私塾に入る。1907年北京西直門市立小学3年に編入。その後また南草廠小学に編入。1912年小学校卒業後市立第3中学に入る。半年後、家庭の貧困のため退学。1913年夏に試験に合格し、公費で食事と宿泊と教科書を提供してくれる北京師範学校に入る。在学中、校長の方還先生と国文教員の宗子先生の教えを受け、文語を用いて散文と詩を書き始めた。

1918年北京師範学校卒業後、北京市方家胡同の小学校長として派遣された。1921年勧学事務所の勧学員(指導主事)となるがすぐに辞め、1922年夏から1923年春にかけて天津市南開中学で国文を教えながら学校の出版委員会委員を兼務し、季刊誌にて彼の習作である短編小説『小鈴』を発表した。1923年北京教育会にて書記を担当、同時に北京市第一中学にて国文を教える。余暇の時間には燕京大学にて英文の授業を傍聴していた。1924年夏、燕京大学の英国籍の教授の紹介を受けてロンドン大学での漢語の教員となる。余暇の時間に多くの外国文学作品を閲読し、かつ小説を書き始めた。イギリスでの5年間の間に《老張の哲学》、《趙子曰く》、《二馬》の3つの長編小説を創作し、また”文学研究会”のメンバーとなった。1929年夏イギリスを離れ、その帰途パリなどに立ち寄ったため、旅費が足らなくなったので、シンガポールにてある華僑の中学で国文の教師をした。授業のないときに長編童話《小坡の誕生日》を書いた。1930年はるシンガポールを離れ上海につき、まもなく北京へと戻った。1930年春から済南の斎魯大学文学院にて副教授を務め、また《斎魯月刊》を編纂した。毎年休暇を利用して著作を続けた。長編小説《大明湖》、《猫城記》、《離婚》、《牛天賜伝》、短編小説《五九》、《黒白季》、《微神》など多くは《gan集》に収められている。

1931年夏胡巨ツと結婚。1934年夏から1936年夏まで青島山東大学にて中国文学の教授を勤める一方、執筆を続けた。この時期の短編小説には《上任》、《柳屯的》、《月牙》、《老字号》、《断魂槍》など多くは《桜海集》と《蛤藻集》に収められている。1936年夏、山東大学での教授を辞め、青島にて文学創作に専念した。同年の秋に長編小説《駱駝祥子》と《文博士》の連載を始めた。七七事変の勃発により、老舎はすでに始めていた二編の長編小説の執筆を中断せざるを得なくなった。8月青島から済南の斎魯大学に戻り教授を勤める。11月、日本軍が済南の前夕を占領し、抗日救国のため、老舎は家を出て武漢へ赴いた。彼の妻と子供たちは済南に残ることが難しく、故郷の北京へ戻った。1937年11月の老舎が武漢についた後、胡巨ツと子供たちは済南に残ることが困難であったので、1938年夏胡巨ツは3人の娘を連れて北京へ戻った。1937年11月老舎は武漢についた後、郭沫若、茅盾、陽翰笙、樓適夫、冫馬乃超などの作家とともに積極的に党の指導の下全国的な文芸会抗日民族統一戦線組織のために働いた。この期間に老舎は周恩来を知り、彼の愛護と協力を得た。1938年3月27日「中華全国文芸界抗敵協会」(略称「文協」)漢口にて成立し、老舎は第一次理事に選ばれる。第1回理事会にて、また常務理事に選ばれ、総務部主任と兼ねる。この職務で連続して当選し重任してからずっと抗戦は勝利を治めている。総務長の仕事について、老舎はこのように述べたことがある:「事実上対外の代表であり、理事長と変わらない。」武漢陥落の前夜、老舎は“文協”について重慶へと移った。彼は抗日戦争期間ずっと、積極的に党の抗日民族統一戦線を支持し、周恩来と党の配慮協力の下、文芸工作者を団結し組織することにおいて、文芸武器を用いて愛国抗日工作に参加し、積極的な貢献をなした。組織出版の“文協”の会報《抗戦文芸》にて多大な努力を費やした。1939年6月から12月まで 全国慰労総会北路慰問団について青海・新彊・陜西・甘粛・寧夏などの地区を訪れ、そこで初めて毛沢東ならびに朱徳と会見した。重慶に戻った後、老舎はこれらのことを長詩《剣北篇》に書き上げたた。

1941年秋、西南国連総会の招待に応じて昆明などにおいて講演を行った。1942年夏、老舎の母は北京でこの世を去る。1943年冬、胡巨ツは3人の子供をつれて北京を逃れ、重慶にやってくる1944年4月、“文協”は年度大会を行い、老舎創作20周年を記念して祝賀会を開いた。

 抗日戦争の8年の中で、老舎は団結抗日を題材にして、積極的に文学創作に従事し、また各種の文化宣伝形式を利用して抗日を広く伝えた。この期間の著作には次のようなものがある。新劇《残霧》、《国家至上》(宋之との共同著作)、《張自忠》、《面子問題》、《誰先到了重慶》、など9部:長編小説《火葬》と《四世同堂》の第一部《惶惑》、第二部《生》:短編小説集《火車集》、《貧血集》:さらに、努めて各種民間文芸形式の作品を習作した。たとえば、《張忠定計》などがある。:京劇《忠烈図》、《王家鎮》など。1946年3月、アメリカ合衆国国務院の招待を受けて、老舎は曹 と一緒に1年間アメリカへ行き、学術講演を行った。期限満了後もアメリカに残り、引き続き文学創作に従事した。《四世同堂》の第三部《飢荒》および長編小説《鼓書芸人》を書き終え、また、翻訳者の手伝いをし、《離婚》、《四世同堂》第一部《惶惑》、《鼓書芸人》を英文に翻訳した。1949年10月、老舎は病気療養中、周恩来からの帰国状を受け、すぐにアメリカから日夜しのんでいた祖国に戻り、同年12月はじめに北京に着いた。

老舎は北京に戻った後、まず北京市曲芸の創作と改革作業に参加し、北京漫才進歩グループ、北京大衆文芸創作研究会、《説説唱唱》編集部において、曲芸工作者とともに新社会を褒め称えるため、時事政策を広く伝え、積極的に学び、働いた。新中国成立後の17年間で、老舎は多くの曲芸作品を創作した。たとえば、《別迷信》、《生産就業》などの"鼓詞"(民間の謡もので、七字句を主とする謡ものを総称して言う。)、《乱形容》などの20段あまりの漫才、曲芸の新形式である曲劇《柳樹井》など。曲芸集《過新年》は老舎の建国後最初に出版された詩文集である。

建国後、老舎の演劇創作は新たに、重要な期間に入った。1950年から1966年の間、次のような話劇を発表した。《方珍珠》、《龍須溝》、《春華秋実》、《青年突撃隊》、《西望長安》、《茶館》、《紅大院》、《女店員》、《全家福》、《神拳》、《宝船》、《荷珠配》など。歌舞劇《消灰病菌》、《大家評理》、《青蛙騎手》。京劇《青霞丹雪》。《十五貫》と《王宝釧》を改編。

建国後、老舎は、創作に励む中で、高齢多病をものともせず、いつも末端機構に深く入り込みつづけ、生活を体験し、材料を捜し集め、模範となる先人を訪ねた。1953年、第3期赴朝慰問団に参加し、朝鮮へ行き、また自ら軍隊駐在地に半年留まり、後ほどすぐ、小説《無名高地有了名》を書いた。1963年秋から1964年春まで、やはり北京郊外の密云、香山などに入り込み、農村人民公社の生活を体験した。17年間のうちで大量の散文、雑文、詩歌を書き、《福星集》、《和工人同志們談写作》、《小花雑集》、《出口成章》などの詩文集に収めた。これらの作品は国民のいろいろな時期の闘争生活を反映し、かつ、言葉は生き生きとし、独自の風格をそなえ、広大な人民群衆に好まれ、国内外において名声は高かった。1951年12月、北京市人民政府は老舎に"人民芸術家"の栄誉ある称号を与えた。

老舎は建国後、政務院文教委員会委員、全国人民代表大会代表、全国政治協商会議常務委員会委員、北京市人民政府委員、中国文聯副主席、中国作家協会副主席ならびに書記処書記、中国民間文芸研究会副主席、中国劇協理事、中国曲協理事、北京市文聯主席、中朝友協副会長などの職に就いた。老舎は17年間において、積極的に文芸指導活動や各種の社会活動に参加し、党の指導のもと、作家や画家や芸人を団結させ、およびに国際文化活動方面においても、有益な貢献をした。前後して、朝鮮、ソ連、インド、チェコ、日本などの国を訪問した。

1966年に"文化大革命"が始まって以後、彼は自発的に運動に参加したが、売国奴林彪と裏切り者江青がでっちあげた"文芸黒線専政"論により、多大な文芸関係者はむごたらしいめにあわされ、老舎は心身ともにひどく虐げられ、8月24日不幸にしてこの世を去った。享年67歳であった。

1978年6月30日、華国鋒の認可を通して、中共中央統戦部、国務院文化部、北京市革委会、中国文学芸術工作者連合体、中国作家協会連合主催により、北京八宝山革命共同墓地において、老舎の遺骨安置儀式を厳粛に行った。1977年10月から絶え間なく印刷物に老舎の遺作が載せられた。詩《昔年》と《今日》、一幕物の劇《火車上的威風》(短編《小説馬袴先生》の改編)、自伝体長編小説《正紅旗下》などがあった。

 

(『老舎略伝』舒済著にもとづく)


作成:竹内果苗