オンライン現代中国作家辞典

Féng Xuěfēng
馮雪峰
ふう・せっぽう
(1903*1976)



馮雪峰小伝:

 馮雪峰は五四運動以来の中国の文学運動の中で長い経験を持つ勇敢な闘士である。彼は早くからマルクス主義の文芸理論を招介し、魯迅の戦友で学生であり、有吊な魯迅研究者で文芸理論家、詩人である。国民党や様様な敵と戦うために、彼は多くのエッセイと思想深い寓話や、また、彼自らの経験を題材とした映画《上 集中菅》などを書いた。彼は、我が国の革命文化の発展のなかで多大な貢献をし、一生を捧げた。彼は1903年に浙江の辺鄙な村で生まれた。幼い頃から、放牧や、いろいろな農作業をしており、労動と生活は困難に満ちた試練を受けた。父母はともに農民であった。彼は早い時機の詩の中で、彼の母の上幸な運命を描いた。‘五四‘運動の波のなかで、新しい思想を洗礼を受け、1921年には、杭州で、朱自清、柔石、潘漠華、魏金枝などが組織した文学団体の“農光社”に参加した。この時、彼はわずか19歳だった。1922年から1923年に至るまでは、応修人、潘漠華、汪静之などと“湖畔詩社”を結成し、協力して白話文の詩集で《湖畔》、《春の歌集》を発表した。詩集は新しくて真摯な作風だったので、すぐに多くの青年の心を動かした。1925年の春、この22才の青年詩人は北京に行った。しかし、文化の古都は彼を屈辱と貧困、飢餓によって迎えた。潘漠華の傍聴証を手に入れ、北京大学で授業を受けた。彼は部屋を借りれず、よく友人と外出して、ベットで寝ていた。食にありつくために、校正係や家庭教師をして、生計を立てた。また、慶修人が編纂した《支那二月》で詩や散文を発表した。1926年から1928年まで翻訳の仕事をはじめ、相次いで《新ロシア文学の曙光》、《新ロシアの戯劇と舞踊》、《新ロシアの無産階級》、《新ロシアの文芸政策》や、中編小説の《私たちの一団とかれ》などを翻訳した。北京時期には、魯迅と会い、“未吊社”で交流し、また《未吊》などで文章を発表した。この時、毛沢東は南方で彼の詩を読み、雪峰の詩が好きだといった。そして、南方にきて革命に参加することをのぞんだ。1927年6月、蒋介石が革命に叛して、李大剣が絞殺された中で、彼は共産党に参加し、ここから終世、共産主義革命の闘士になった。その年の11月、彼は翻訳原稿に“この翻訳書は共産主義と人民の犠牲に捧げる”と書いて逮捕されそうになったので、上海に逃げた。1928年の12月、柔石は雪峰を魯迅に紹介した。彼はすぐに魯迅の元で翻訳や《萌芽》などの編纂に従事し始めた。すぐ後には、魯迅の指導と援助のもとで、《科学技術論シリーズ》を編纂、出版した。これは、党指導部の革命文芸運動を促した。マルクス主義文藝論の宣伝のために、などの重要な文学論を数多く翻訳した。1929年10月には、中国左翼作家連盟の準備作業に参加し、彼は“12人の基本成員”の1人となった。“左連”の責任者の一人として、多くの進歩的な作家、革命作家を団結、組織して、国民党反動派の文化を 包囲し勇敢な闘争を押し進めた。1931年、“左連”の党団書記を任された。1932年、上海中央局文化作業委員会書記、1933年には、中共江蘇省委宣伝部長を任された。1931年4月、国民党は上海で23人の革命青年が射殺された。抗白色恐怖が奮い起こされた。“左連”五烈士を記念として、生きているものを鼓舞して死者を踏み越えさせ、雪峰は魯迅の指導と助けを得て、《前哨》という雑誌を密かに出版した。1933年に至るまで、彼は魯迅の元で、文化界の沢山の共産党員や進歩的な作家と共に、反動派と“第三種人”などの批判文を書き、国民党反動派の文化を包囲し闘争を繰り返した。1933年末、彼は密かに上海を離れ、江西瑞金に行き、中共中央党校副校長を任された。中華ソビエト第二次全国代表大会では、中華ソビエト政府中央執行委員会の中央執行委員候補に選出された。1934年には、江西から始まった 2万5千里の長征に参加し、1935年には陜西に達した。1936年には、上海から西安に行き張学良と会った。4月には、上海に戻り魯迅に毛沢東の抗日統一戦線構想や紅軍の長征などの状況を報告した。また、この時雪峰は、魯迅の《論我們的文学運動》などを記録したり、魯迅の著作の起草に協力した。1936年に魯迅が逝去すると、葬式を主催した。また、この時期には、何人かのアメリカ人記者とも会った。1937年1月から2月には上海から途中西安を経て陜西に行き、党中央へこれまでの報告を行った。彼は前後して中共中央上海事務所の副主任や、東南局文化工作委員会委員などの職を請け負った。1941年に、彼は逮捕され、2年間拘禁された。しかし、ほどなく出獄すると重慶に行き、周恩来の指揮のもと、国民党統治区で党の活動を行った。抗日戦争期の雪峰の作品は、《魯迅論及其他》、《真実之歌》、《郷風与市風》、《有進無退》、《跨的日子》などがある。1946年2月には、上海にもどり、上海の統一戦線と文化工作に従事した。解放戦争期の作品には《過去的時代》、《雪峰文集》、《論民主革命的文芸運動》、《雪峰寓言》などである。全国を共産党が解放した後は、上海文連副主席、魯迅著作編刊社社長、中国作家協会党組書記、副主席、《文芸報》主編、人民文学出版社社長兼総編集者、第一期全国政協委員、第一期全国人民大会代表に任命された。解放後の作品には、映画脚本の《上饒集中菅》や《論文集》、《回顧魯迅》、《魯迅和他少年時候的 友》、《論〈野草〉》、《論〈保衛延安〉》などである。1957年以後には彼は作品を発表していない。1958年始めからは、雪峰は右派とされ長い苦難の時代となった。この時期に、長い時間をかけて“太平天国”の史料を集め長編の著と魯迅に関する著作を書く準備をしたが、未完成のまま1976年1月31日にこの世を去った。1979年になり、やっと彼の党籍と政治吊誉が回復され、同年11月17日に追悼大会が開かれた。ここで彼の一生が人民に尽くしたものと確認された。


作品集・単行本

魯迅的文学道路,論文集 / 馮雪峰著 -- 湖南人民出版社 , 1980. --

邦訳

新中國のリアリズム論 / 馮雪峰著,宮崎ひろし譯 -- 未来社 , 1955. --
  
作成:九尾正浩