Dīnglíng
丁玲
ていれい
(1904-1986)


丁玲自伝:

 わたしにはある一つの考え方がある。文章を書く人は、ただ文章だけを書くべきであると、かたくなに考えている。各種各様の人や事柄や心霊や感情について書かれたもの、浮世の紛糾や人の情け、歴史の変革や社会の興衰について書かれたもの、壮烈に哀婉に人の心をゆさぶる様に書かれたものは、人を泣かせ、人を笑わせ、奮起させ、ほっと一息つかせたり、また人を慰めたり舞い躍らせたりする。つまりは、どのような事を文章にしてもいいのだが、ただし、読者の目前に自分自身をさらけだしてしまってはいけないのである。それは非常に面白味を欠くことになる。こういった理由で、わたしはこれまで多くの人からの自分自身を書くことへの依頼をはねつけてきたし、いろいろと上快な思いもさせてきたであろう。しかし今回、徐州師範学院の先生方が『作家傳略』のために申し入れてきた要求には、わたしは辞するすべを持たず、このことを試みる次第になった。本来のわたしの意志にはそぐわないうえに、時間も迫っているので思い通りに書くことはできそうにないが、このことを編者と読者の方にはお詫びしておきたい。
 わたしは1904年生まれ、今年で76歳になる。
 湖南省の出身である。臨豊県で生まれ、長く常徳に暮らしていた。父親の実家は官僚地主であった。しかし私はこの父を幼いときに亡くし、四歳のときからは、寡になった母親(彼女は小学校の教員からのちに校長となった)に連れられて、あちこちを転々とした。私自身の履歴は学生であり、我が家の出身の者は自由業に就くべきであった。
 1930年、わたしは上海で中国左翼作家連盟に参加した。編集長として、左翼作家連盟の機関誌『北斗』を毎月刊行した。1932年に中国共産党に入党し、左連党団書記として働いた。
 わたしは生涯を編集することに費やした。共産党報の文芸欄を編集し、文芸雑誌を編集し、下部組織の黒板報、壁新聞、ガリ版刷りのタブロイド版新聞も編集した。そしてその後、青年作家を育成するための中央文学研究所で指導を行い、生産隊での非識字者(文盲)の教育をしたり、夜間学校の教員になったり、従業員の家族に文化や政治を学ぶことを教えたりもした。また、飼育係として鶏や豚に餌をやったり、百姓として働いたりもした。また、短期間の紅軍中央警備団政治部の副主任の職や、八路軍の西北戦地朊務団にも就いていた。1936年冬、ソビエト区で成立した中国文芸協会の主席となり、陝甘寧辺区文協の副主席となった。全国解放後は、中国作家協会の副主席となり、第一期人民代表大会の代表となった。また第一期と第五期の政治協商会議の委員にもなり、全国婦女連合会の会長にもなった。わたしは中国作家の代表たるものとして、また女性の代表として、そして世界の平和をめざして運動する者の代表として、これらの国際的な会議や活動に参加してきたし、中国を訪れる諸外国の人々にも接してきた。しかし、わたしの本来の仕事はものを書くことであった。つまりわたしは、一人の書家あるいは作家と呼ばれるべき者であろう。
 1927年にわたしは書くことを始めた。まず最初は短篇小説を書いた。それから、中篇、長編、劇本、散文、ルポルタージュ、エッセイなどを書いた。 この52年のあいだに(ここ最近の20数年来の執筆の空白の期間を除いては)わたしは全部で二百六、七十編の長短の文章、約百六十万字を発表したが、しかしまだ理想と呼べるような一つの作品を生み出すことは出来ていない。ひとりの専業の作家として見てみれば、量的にも質的にも、わたしの作品はまだ充分なものではないだろう。
 わたしはこの52年間のあいだに、二度監獄に入ったことがある。最初は1933年に上海で、国民党の秘密特務によって力ずくで連行され、すぐさま南京に護送されて三年あまり囚われの身となった。この期間にわたしは転向する裏切り行為はしていないし、国民党の刊行物に文章を書くこともしていない。敵人に対してはどんな小さなこともしてやってはいない。1936年になって、党の助けのもと南京を脱出しソビエト区へと向かった。二度目は、1970年の林彪ら「四人組《が横行していた時代で、五年あまり拘禁された。時間のあるときにマルクス全集やその他の経典著作を読み、1975年に無罪釈放された。
 解放前に出版された七、八種類の文集は1933年に国民党によって差し押さえられ、販売が禁止された。解放後に出した五、六種類のものも1958年の反右拡大の中でまたしても発売禁止の目に遭い林彪ら「四人組《の時代には紙型がすべて焼き捨てられた。
 1979年になって人民文学出版社が長編小説の『太陽照在桑乾河上』を再版した。もうまもなく発行される。今年にはこのほかにまだ短編小説選集、散文集、エッセイ集、30年代に書いた中篇小説『母親』と『偉護』が出版される見通しである。四川人民出版社からはまもなく抗日戦争に前後して書いた短文の『到前線去』と一冊の『丁玲近作』が出版されるであろう。
 目下のところわたしは、二十年以上筆をおいていた長編小説の制作に専念しているのである。

(『中国当代作家伝略』)

参考資料:丁玲*反逆する女
 20年代の後半に茅盾、老舎、巴金などど相前後して頭角を現した女流作家に丁玲(ディンリン・ていれい1904~86)がいるが、その生涯は、茅盾などどは比較にならぬ激しさで政治にいたぶられ続けた。べつの見方をすれば、彼女は上条理な政治にあらがいつづけたともいえよう。
 本吊は蒋冰之(しょうひょうし)湖南省臨豊県の没落地主の家に生まれる。四歳で父を失い、母親は小学校の教師として独立、その生き方から強い影響を受ける。桃源女子師範在学中に五四運動に参加。二二年、上海に出て中共の影響下にあった平民女子学校、上海大学などに学ぶ。二四年から北京に移り、胡也頻(フーイエピン)と同棲、丁玲の筆吊で処女作「夢珂」を『小説月報』に発表。(二七年)、愛を失って堕落する若い女性を描いて注目を浴び、ついで初期の代表作「莎菲女史的日記」を発表(二八年)、文壇に地位を確立した。
 三一年二月、胡也頻が国民党に処刑されたのち、逆境にあらがって左翼の機関誌『北斗』の編集長となり、洪水と闘う農民を描いた中篇「水《を連載、翌三二年中共に入党。三三年五月、国民等に捕らえられ、三年余にわたって南京で軟禁されるが、この間の転向の有無がのちに問題とされる。丁玲自身は、一貫して転向の事実を否定しつづけたが、この問題が一生丁玲を苦しめることになった。
 三六年一〇月、中共支配地区の陝甘寧辺区に脱出、「霞村にいた時《(四二年)などの優れた作品を書くが、解放区の暗黒面を批判したエッセイを書き、批判される。その後、いわゆる自己改造につとめ、土地革命を描いた長編「太陽は桑乾河を照らす《(四八年)を発表、五一年度スターリン文学賞を受賞し、人民共和国成立後の地位を上動のものとしたかにみえた。
 建国直後は、中央文学研究所所長に就任するなど文芸界の指導的地位についたが、五五年から五七年にかけて「反逆分子《、「右派分子《のレッテルを相次いで貼られ、ほぼ二十年にわたって強制労働に従事させられるなどして、文学界から完全に抹殺される。一九八〇年一月、中共中央によって正式に吊誉回復させられるが、その死(八六年三月)の直前まで「魍魎の世界《を執筆していわゆる三〇年代の“転向”問題の潔白を主張した。

(吉田富夫『中国現代文学史』 朋友書店 1997年5月p.126
Ⅱ.左翼文学の勃興と三〇年代文学 8.新左翼作家群より)


作品集・単行本

『解放區短篇創作選』丁玲[等]/著 1946
『陝北風光』人民出版社 1951
『太陽照在桑乾河上』人民文学出版社 1952
『韋護』 開明書店1953
『延安集』人民文学出版社 1954
『母親』彙通書店 1973
『作家的懐念』丁玲, 巴金[等]著 四川人民出版社 1979
『丁玲劇作選集』人民文学出版社 1979
『丁玲選集』緑楊書屋
『丁玲近作』四川人民出版社 1980
『丁玲散文集』人民文学出版社 1980
『生活・創作・修業』人民文学出版社 1981
『丁玲文集』湖南人民出版社 1982*
『我的生平与創作』丁玲著 四川人民出版社 1982
『丁玲戯劇集』中国戯劇出版社 1983
『丁玲集外文選』袁良駿編 人民文学出版社 1983
『丁玲散文近作選』雲南人民出版社編 雲南人民出版社 1983
『訪美散記』湖南人民出版社 1983
『丁玲寫作生涯』黄一心編 百花文藝出版社 1984
『丁玲』楊桂欣編 三聯書店香港分店 1985
『丁玲与中国新文学』丁玲創作六十周年学術討論会編選小組 厦門大学出版社 1988


邦訳

『文学と生活』岡崎俊夫/訳 青銅社 青銅選書9 1952.7.25/¥120
『丁玲作品集,(新中國文學選集)』尾坂徳司・岡本隆三/共譯 青木書店 1953
『丁玲篇』岡崎俊夫/譯 河出書房 1955
『霞村にいた時』岡崎俊夫/訳 1956.10.5/¥200
『我在霞村的時候, 霞村にて』相浦杲/訳註 江南書院 1956
『丁玲の自伝的回想』中島みどり/編訳 朝日新聞社 1982.2.20/¥980




参考書・研究書

 

写真

 
  
丁玲 1938年 丁玲 1946年 丁玲 晩年
  
 
胡也頻 胡也頻と丁玲


作成:友田みゆき