Dài Wàngshū
戴望舒
たい・ぼうじょ
(1905*1950)


戴望舒小伝:

 現代詩人。本吊夢鴎、ペンネームとして望舒、艾昂甫、江思などがある。  浙江杭県出身。1923年上海大学中 国文学科を専攻し、社会学科の授業でも聴講生として学んだ。1925年震旦大学でフランス文学特別クラスに転入し、前後して劉燦波(吶鴎)、杜衡(蘇ツ文)と知り合う。1926年中国共産主義青年団(C.Y)で、積極的に革命宣伝活動に参加し、1927年反動分子の密告により囚われ、1928年8月に『小説月報』に『雨巷』、『残花的泪』などの六種の詩によって釈明し、詩壇の注目を浴び始め、“雨巷詩人”と誉められ、それから中国新詩発展史上において中国現代詩派代表とされた。同年9月、劉爛波が上海で“第一線書店”を作り、戴望舒と施蟄存編集主任の仕事をし、半月間『無軌列車』を発刊するが、停刊に追い込まれ、書店も封鎖される。1929年春、書店吊を“水沫”に変える。戴望舒の第一作目の詩集《我的記憶》が同年4月水沫書店から出版され、“水沫叢書”に入れられる。9月、施蟄存らと《新文芸》月刊を編集。1930年左翼作家連盟に参加。1932年大型文芸紙《現代》を編集、同年11月フランスに留学、リヨンのフランス大学とパリ大学で聴講する。1933年8月、第二詩集《望舒集》を国外で編集し、国内の現代書局で出版。1936年7月、徐遅、路易士(紀弦)らと“新詩社”をはじめ、詩刊を出版する。10月に“新詩社”成立し、《新詩》を創刊し、編集委員を担当する。1937年1月、第三集《望舒詩稿》上海雑誌公司より出版。1938年香港に赴き、《星島日報》の文芸副刊《星座》を主編し、日本の暴虐をあらわにし、抗日文学作品を宣伝した。同時に中華全国文芸界抗敵協会の委託を受け、許地山とともに“文協”香港支部の仕事を負う。1942年末香港陥落、抗日宣伝維持と愛国同志の密告拒否のため日本軍に1942年春まで囚われる。獄中で切磋琢磨し、民族意識を硬く持ち《獄中題壁》、《我用残搊的手掌》などの意欲的な詩が書かれ、詩人が持つ祖国を愛し自由を愛する強烈な感情を表現した。
 抗日戦争勝利後は“文協”支所復興の仕事に参加する。1946年より、まず上海師範専門学校で、それから 南大学、上海音楽専門学校で教鞭を執る。1948年5月、国民党に追われ上海を離れ香港に赴く。同年第四集《災難的歳月》上海星群出版社から出版する。1949年香港から帰ってきて第一次文代会に出席し、それに前後し華北大学第三部研究員、新聞総署国際新聞局翻訳編集に当たる。上幸にも、旧社会における摩擦が強く、この才能ある詩人は体調が日々思わしくなく、1950年2月28日に病死する。わずか45歳であった。世を去る少し前に、彼は同志に向かって自分の病気が治ったら中国共産党に加入して、新中国のために仕事に励みたいと言った。戴望舒の一生は短かく、作品も少なかったが、しかし彼は中国“現代派”の代表的な詩人であり、中国現代文学史上重要な地位にある。

『中国現代文学辞典』華岳文芸出版社、1988年12月


作品集

災難的歳月 戴望舒著 文史出版社,1975.
戴望舒詩集 戴望舒著 四川人民出版社,1981.
西班牙小景 [西]阿索林(Azorin)著,徐霞村,戴望舒譯 福建人民出版社,1982.
戴望舒 戴望舒著.中国現代作家選集 三聯書店香港分店.1987.
望舒草 戴望舒著 上海書店, 1988.


作成:神谷宏明