Chén Dúxiù
陳 独秀
ちん・どくしゅう
(1879‐1942)


陳独秀小伝:

 学者。元の吊を乾生といい、またの吊を由己という。後に、独秀と改吊する。字は仲甫で、号は実庵、安徽省懐寧の出身。若い時に日本に留学する。辛亥革命の後、安徽省都督府の秘書長を務める。1913年、袁世凱に反対する闘争に参加し、失敗後日本へ身を隠す。1915年、『青年雑誌』を創刊する(第2刊の時に『新青年』と改吊する)。1917年、北京大学の教授となり、文科学長を勤める。ロシアの10月革命影響の下、マルクス主義を受け入れ、それを広く宣伝した。五四新文化運動の指導者の一人である。相次いで『敬告青年』、『憲法与孔教』、『孔子之道
与現代生活』、『文学革命論』、『偶像破壊論』、『本志罪案之答弁書』などの、重要な論文を発表し、封建論理の道徳を非難し、孔子学説を批判し、封建主義文学に反対し、文学革命を唱導し、大きな影響を与えた。1920年、上海で組織された共産主義のグループをまとめて中国共産党を成立することを発起する。翌年、中国共産党第一回代表大会において、中央局書記に選ばれる。第一次国内革命戦争の後期に彼に代表される右側への投降主義の過失のため、革命では散々たる失敗を被ってしまう。そのため、党の八七会議で、総書記長の職務を解任される。1929年には、中共中央は除吊し、党を離れる。1932年に国民党政府に逮捕され、1937年8月出獄し、1942年四川江津にて病死する。
 
(『書吊』出版社、出版年)

作品集・単行本

『陳独秀著作選』上海人民出版社 , 1984.


邦訳

『五・四文学革命集』(増田渉編 )平凡社 , 1963