Cáo Yú
曹禺
そう・ぐう
(1910-1996)


曹禺小伝:

 中国の劇作家。演劇教育家。本吊は万家宝、字は小石。原籍は湖北潜江で、1910年9月24日天津に生まれる。封建官僚の家庭に生まれ、父、万徳尊はかつて鎮守使や都統や黎元洪総統の秘書を務める。生母は早くに他界し、継母は演劇が非常に好きでよく曹禺を連れて戯曲や文明劇を鑑賞した。曹禺は学校に通わず、教師を家に招いて経典や史典を学んだが、よく人目を盗んでは『紅楼夢』『水滸伝』『西廂記』等の本を読んでいた。青少年時代は商業が発達し、水陸交通の便利な天津で過ごしたが、一方では帝国主義分子の暴行を目の当たりにした。この時の経験は彼に反帝愛国思想の形成と彼の生涯における創作の思想の傾向ヘ大きな作用を起こし、また、彼の一部の作品に素材と登場人物の原型を提供した。1922年秋、曹禺は南開中学に入学する。1925年には南開新劇団に入り、重要な柱となる。彼は、一方で古典の吊著を上演し、また、一方で時事新劇の脚本を書いて民主宣伝の奮起活動を行った。この前後、彼は、多くの「五四運動《以降の新文学作品を閲読し、魯迅や郭沫若等の作品に大きな影響を受けた。1928年、彼は、南開大学政治学部に進学したが、1929年には、清華大学の西洋文学科に編入し、貪欲に世界の吊著を研究し学ぶ。とりわけ、ギリシャ神話及びシェークスピア等の作品に没頭した。また、友人と京劇の上演を見に行ったり、浪曲を聞きに行ったりもした。西洋文学を研究する傍ら東西洋の哲学著書を読みあさり、老子、仏教典、キリスト教典を学んだ。彼の熱心で固執した追求精神は早期の創作に鋳造され、作品の思想内包と感染力を増強した。
 1933年曹禺は第一部多幕現代劇《雷雨》を完成させ、翌年発表した。彼は、青少年時代に熟知していた社会範囲の中から《雷雨》の題材をとり、周魯両家8人の歴史と実際に起こったもめごとを通して、光緒20年(1894年)から1920年までの約30年間にも及ぶ社会生活と衝突を反映させた。《雷雨》のプロットの豊かさ、おもしろさ、激しい演劇衝突、がっちりとした構成、雄渾でどっしりとした格調、濃厚な悲劇雰囲気は、今まで学んだギリシャ悲劇等の影響を深く受けている。しかし、曹禺が描いたのは、あくまでも地元の「中国人の事、中国人の思想感情《である。彼は、民族の内容と、外国から来た芸術形式を最も適切に、最も彩り豊かに結合させた一人である。それゆえ《雷雨》は中国の若者の演劇技術を新しい高さまで引き上げた。《雷雨》の中の人物イメージは高度の美学価値を備えており、人物描写の成功にその生命力があり、曹禺の演劇作品の共通の特徴でもある。
 1935年には四幕悲劇《日出》を書き上げた。大都会のホテル暮らしをする社交界のヒロインを軸に、革命の足音を聞きながら大恐慌の波に翻弄される人間模様を描いた作品で、30年代初期の中国社会の暗黒な現実を反映しており、曹禺の個性や芸術風格を更に表に出した。《日出》は《雷雨》をしのぐ完成度で、天津『大公報』文学賞を獲得した。この作品で劇作家・曹禺の地位を上動のものとしたのである。
 1936年、国立南京戯劇学院の教授として教鞭を執るが42年初め、国民党特務機関が進歩的学生・教員を弾圧したことに抗議して辞職する。この間、戯劇家抗敵協会や文芸界抗敵協会などの理事を務めるかたわら、《原野》(37年)、《蛻変》(39年)、《北京人》(40年)などを発表した。《原野》3幕は、脱獄囚の復讐を描き、人間の動物的な欲望をテーマにしたあたりに西洋文学の影響が顕著だが、評判は分かれた。民族意識に燃える一女医が腐敗した病院を立て直す過程を描いた抗戦劇《蛻変》4幕は、作者のリアリズム劇への転身を示すものとして注目されたが、曹禺の本領は、古き文明に病む北京の人々を扱った《北京人》3幕のほうにより良く発揮された。42年には巴金《家》を脚色し、44年には民族工業における技術者の問題を追求した《橋》を発表した。  抗日戦争勝利後、1946年3月に老舎と共に渡米し、中国演劇の歴史と現状について講演した。47年には帰国し、上海戯劇学院で教鞭を執るかたわら、シナリオ《うららかな日(艶陽天)》を完成した。1949年7月第1回中華全国文芸工作者代表大会に主席団の一人として参加する。それ以降、文学芸術界連合会常務委員、中央戯劇学院副院長、北京人民芸術劇院院長、戯劇家協会副主席、作家協会書記など、演劇界の要職を務めるが、劇作の筆は棄てずに、54年協和医院などに下放した体験をもとに《明るい空(明朗的天)》3幕を発表した。56年7月、中国共産党に入党し、61年には、《臥薪嘗胆》の故事をもとに歴史劇《胆剣篇》5幕を集団創作した。
 文化大革命中は、ブルジョア反動権威として激しい攻撃を受け、人民芸術劇院の寮の門番をさせられる。文化大革命の終息後は、78年2月には全国人民代表大会常務委員に選ばれたのをはじめ、文芸界の要職に復帰する。78年、歴史劇《王昭君》5幕を発表。85年10月には、生誕75周年を期して南開大学で曹禺戯劇研究学術討論会を開いた。


作品集・単行本

『原野』生活文化出版社 1940
『北京人』文化生活出版社 1943
『迎春集』北京出版社 1958
『明朗的天』人民文学出版社 1959
『雷雨』香港大通書局  1961
『雷雨』大阪外語大陸語學研究所
『日出』香港大通書局 1962
『北京人』三幕劇 東亜書局 1963 
『原野』四川人民出版社 1982
『中国抗日戦争時期大後方文学書系』主編/曹禺 重慶出版社 1989
『家』話劇 巴金/原作 曹禺/改編


中国現代吊劇叢書「日出《


邦訳

『曹禺篇』奥野信太郎[ほか]/譯 河出書房 1954
『中国現代文学選集――老舎・曹禺集』松枝茂夫/訳 平凡社 1962




作成:澤田 渉