Xiè Bīngxīn
謝冰心
しゃ・ひょうしん
1900*1999


謝冰心小伝:

本吊は謝婉瑩。


年表

1900 1歳
10月5日福建省福州府城隆普營に生まれる。祖父の謝鑾恩は福州
父の謝葆璋は

1901 2歳
家族とともに上海へ移住、昌寿里に住む。

1904 5歳
父親は清政府海軍練習部隊隊長になり、家族とともに山東省煙台に引っ越し。
煙台海軍軍人採用事務所に住んだ。 母親について文字を習い始める。

1905 6歳
煙台東山北坡の海軍医院に住む。
海が見え、その海は思想、感情の上で大変重要な位置を占めている。

1907 8歳
おじの楊子敬氏により《三国志》の話を聞き、大変喜ぶ。
叔父の公務が忙しくなり、講義はしばしば中止になったが、彼女は自分で《三国演義》を読み、続いて《水滸伝》や《聊斎誌異》などを読んだ。このころ密かに小説を書き始める。

1909 10歳
おじの王 逢氏が家庭教師を務め、国語の教科書以外に《論語》、《左伝》、《唐詩》 さらには《班昭女誡》《飲冰室自由書》など新旧の散文を勉強した。 おじの勧めで、詩を熱心に読むようになり、対句や韻を学び、勉強のほかに七言絶句を作った。

1910 11歳
《無猫国》《大姆指》など当時の児童向け文学作品に触れ始め、《大姆指》を弟や友達に話して聞かせるようになる。

1911 12歳
父親が海軍学校長を辞職、一家で煙台から上海へわたり、虹口に住む。

1912 13歳
祖父の部屋の本棚は彼女の楽園となり、林shu訳のフランスの《茶花女遺事(椿姫)》などを読んだ。


1914 15歳
秋、大変優秀な成績で北京貝満女子中学(後に女十二中)に入学。

1918 19歳
夏、貝満中学を卒業、協和女子大学予科に入学。

1919 20歳
「五四」愛国運動に参加、学生会の書記に選ばれ、北京女学会連合会の宣伝係に参加、ストライキ活動に参加した。
8月25日、北京の《晨報》に初めて《二十一日聴審的感想》を発表する。
9月18日*22日、北京の《晨報》に初めての小説《両個家庭》を連載。初めて「冰心《のペンネームを使う。
10月7日*12日《晨報》に二番目の短編小説《斯人獨憔悴》を連載。まもなく三幕話劇に改編され、好評を得た。
10月30日*11月3日《晨報》にノンフィクションの《秋雨秋風愁皺人》を連載。
11月11日《晨報》に《我作小説、何会悲観?》を絶賛する。
11月22日*26日《晨報》に短編小説《去国》を連載。
12月1日、《晨報》に散文《晨報・・・学生・・・労働者》を発表。

1920 21歳
1月6日*7日《晨報》に短編小説《荘鴻的姉姉》を連載する。
1月29日、《晨報》に短編小説《一篇小説的結局》を発表。
3月11日*13日 《晨報》に短編小説《最後的安息》を発表。
3月15日、北京協和女子大学が燕京大学と合併、燕大女校となる。この時開かれた燕京大学男女校懇親会の後、 《燕京大学男女校聯歓会誌盛》を書き、《燕大季刊》のだ一巻第一期にのった。
同巻には短編小説《世界上有的是快楽・・・・光明》も発表された。どちらも吊前は謝婉瑩。
4月6日*7日《晨報》に短編小説骰子》を連載。
5月20日*21日《晨報》に短編小説《還郷》を発表。
5月21日、「燕大季刊社」に加入、編集をつとめる。秋には編集副主任に選ばれる。
6月10日、《晨報》に短編小説《一個兵丁》を発表。
8月1日、《晨報》に短編小説《一個奇異的夢》が掲載される。
8月9日、《晨報》に短編小説《一個軍官的筆記》を発表。
9月、《燕大季刊》第一間第三期に謝婉瑩の散文《遙寄印度哲人泰戈爾》《晝ー詩》、短編小説《一個憂鬱的青年》雑感《書的我見》《解放以後責任就来了》《怎様補救我四周乾燥的空気》。
9月12日と29日、《晨報》に短編小説《是誰断送了 》《三児》を掲載。
11月27日、ベルギー作家のメーテルリンクの脚本《青い鳥》を演出。英文を中文に翻訳。

1921 22歳
4月、《小説月報》第12巻第4号に短編小説《超人》を発表。4月20日*21日、《晨報》に短編小説《月光》を発表。5月13日、《晨報》に雑感《石像》を発表。6月、《燕大季刊》第2刊第1,2期合併号に《自由―真理―朊務》、《五月一号》、《法律以外的自由》、《是非》、《提筆以前zen様安放ni自己》、《除夕的夢》等の文章を発表。さらに短編小説《海上》 を発表。
1922 23歳
1月1日、6日*26日、《晨報副鐫》に冰心としての詩《繁星》を連続して載せる。
1月、《小説月報》第13巻第1号に短編小説《煩悶》を発表する。 1月から3月、北京の 《晨報副鐫》と上海の《時報新報・学燈》に冰心の《仮如我是個作家》、《将来的女神》 などの詩や《十字架的園裏》などの散文、さらに《論文学批評》を載せた。
3月21日*6月30日、《晨報副鐫》に《春水》という詩を載せる。
3月23日*11月23日、《晨報副鐫》、《時事新報・学燈》に《 的蔭下》、《 上忘》など18の詩を発表。
4月、《小説月報》第13巻4号に短編小説《瘋人日記》を発表。
6月、《小説月報》第13巻第6号に短編小説《遺書》を発表。
9月、《小説月報》第13巻第9号に短編小説《寂寞》を発表。
10月、《小説月報》第13巻第10号に散文《往事》を発表。
10月26日、《晨報副鐫》に散文《到青龍橋去》を発表。

1923 24歳
1月、詩集《繁星》を商務印書館から出版する。
2月*3月、《晨報副鐫》に《致詞》、《信誓》などの詩を発表。
4月、《小説月報》第14巻第4号に散文《夢》を発表。15日、《燕京大学一九二三年同級録》のための序言を書く。
5月、短編小説、散文集《超人》を商務印書館から出版。詩集《春水》を新潮社から出版。
夏、優れた成績で燕京大学文本科を卒業、文学士の学位を取得。同時に 7月25日、《晨報副鐫》に児童世界 8月、アメリカ留学。3日に北京を離れ、上海へ。 17日に 号に乗り出発。船の中で《紙船》《郷愁》などの詩を書いた。
9月9日ボストンに到着。
9月17日 ウェールズリー女子大学で学び始める。
11月下旬、病気のため学校の聖卜生病院に入院、12月15日沙穣青山療養院に移る。 12月1日、《晨報副鐫》に散文《好夢》を発表。
17日*22日まで《遠道》(詩)を連載。

1924 25歳
2月12日《晨報副鐫》に詩《倦旅》を発表。
3月、《小説月報》第15巻第3号に短編小説《悟》を発表。
6月《小説月報》第15巻第6号に短編小説《六一姉》を発表。
7月、《小説月報》第15巻第7号に散文《往事(二)》を発表。
7月5日、病気が治り、退院。
8月8日*10日、《晨報副鐫》に散文《山中雑記》を連載。
9月、《小説月報》第15巻第9号に短編小説《別後》を発表。

1925 26歳
李清照の詩を英語に翻訳し始める。
6月22日、《語絲》第32期に詩《赴敵》を発表する。
夏、 コーネル大学夏期学校でフランス語の補習を受ける。
9月2日

1926 27歳
1月、《小説月報》第17巻第1号に短編小説《劇後》を発表する。
3月10日、
5月、北新書局出版から
6月、アメリカ 9月、母校の燕京大学に戻る。

1927 28歳
6月、燕京大学の卒業論文《元代的戯曲》を《燕京学報》第1巻第1期に発表。

1928 29歳
5月、「済南惨案《の発生後、激情を込めた詩《我愛、帰来、我愛》を書く。

1929 30歳
5月、《燕大月刊》第4巻第3、4期に《我曾》(詩)を発表する。
6月15日呉文藻博士と結婚。

1930 31歳
北平女子文理学院で教鞭を執る。
1月、《小説月報》第21巻第1号に短編小説《3年》を発表する。
1月、短編小説、散文集《往事》を開明書店から出版。
1月、母楊福慈病気のため上海でなくなる。
3月、 短編小説《第1次宴会》を《新月》第2巻第6,7合併号に発表。

1931 32歳
2月6日長男宗生誕生。
詩《我勧 》、《驚愛如同一陣風》を《北斗》創刊号と第2期に発表。
短編小説《分》を《新月》第3巻第11期に発表。
散文《南帰》を北新書局から出版。
《先知》を新月書店から出版。

1932 33歳
北新書局から《冰心小説集》(《冰心小説集》、《冰心詩集》、《冰心散文集》 の三巻に分かれている。)を出版。彼女は全てに自序を書いた。
同年さらに短編小説集《姑姑》を出版。

1933 34歳
清華大学で教鞭を執る。北新書局から短編小説集《去国》、詩・散文集《閑 情》を出版。
9月*10月、天津《大公報》に《我門太太的客聴》を連載。

1934 35歳
散文《新年試筆》、《尋常百姓》を前後して《文学》第2巻第1期、第3巻第1期に 載せる。
短編小説《冬児姑娘》、《相片》を前後して《文学季刊》創刊号、第3期に載せる。

1935 36歳
2月、《平綏沿綫旅行紀》を平綏鉄路管理局から出版。

5月1日、長女宗遠誕生。
5月、北新書局から短編小説集《冬児姑娘》出版。

1936 37歳
4月27日、上海《大公報》から散文《 5月、《自由評論》第25,26期合併号に詩《一句話》を発表する。
6月、《青年界》第10巻第1号に散文《記薩鎮冰先生》 6月7日、中国文芸家協会成立、宣言を発表し、冰心も宣言に吊前を連ねる。
夏、欧米に旅行し、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、フランス、ドイツ、ソ連などを訪れた。
7月、《文季月刊》第1巻第2期に短編小説《西風》。
10月1日、魯迅、郭抹若、茅盾、巴金ら21人と《文芸界同人為団結 1937 38歳
6月29日、ヨーロッパから北京に帰る。
11月9日、次女宗黎誕生。

1940 41歳
冬、雲南から四川省重慶へ。
父謝葆章が病気のため北京で亡くなる。

1941 42歳
重慶 1月、「男士《をペンネームに使い始め、《星期評論》に《闘於女人》など全9編を発表。
3月15日、中華全国文芸界抗敵協会第3理事に選ばれる。

1942 44歳
《闘於女人》7編を続けて書く。
9月、天地出版社から《闘於女人》が出版される。
開明書店から《冰心著作集》(小説集、散文集、詩集3巻)が出版される。

1945 46歳
2月22日、全国文化界

1946 47歳
4月、重慶を離れ、5月1日南京に着く。
7月、北京に帰る。
11月9日日本の東京に着く。

1947 48歳
7月、散文《diu上diao的珍賓》に《婦女月刊》第6巻第2期に発表。
8月、短編小説《無題》を書く。趙清閣編の《無題集》に収められる。
10月、chen光出版公司から出版。

1949 50歳
日本の東京大学(元帝国大学)の招待を受け、中国文学の講義をする。
9月、東京大学日本雄弁会講談社から《如何欣賞中国文学》(日本語)を刊行。

1950 52歳
日本の東京を離れる、一家で中国へ。

1953 54歳
中編小説《陶奇的暑期日記》を創作。
9月23日*10月4日北京懐仁堂で開かれた中国文学芸術工作者代表大会に出席。
同時に 全国文協会員代表大会に参加。
11月27日、中印友好協会訪問団に参加し、インドを訪れる。インドの19の都市と 多くの村を訪れる。

1954 55歳
1月12日、インドを離れ、ミャンマーを経て、2月4日広州に着く。
戻った後、《印度之行》を書き、《新観察》 第10*12期に連載する。
9月、人民文学出版社から《冰心小説散文選集》を出版、《自序》を書く。
10月9日、《北京日報》に散文《偉大的保証,偉大的関懐》を発表。

1955 56歳
1月,中国青年出版社から《印度童話集》を出版。4月人民文学出版社から《吉檀釈迦》を出版。
4月2日、インドへ行き、アジア国家会議に出席。22日印度を離れ帰国。戻った後《印度重遊記》を書く。
8月2日、中国代表団に参加し、日本で原爆禁止世界大会に出席。
8月28日、広州に着き、《訪日観感》《広島―控訴的城市》などの散文を書く。

1956 57歳
2月、中国アジア委員会委員になる。 5月、中編小説《陶奇的暑期日記》を少年児童出版社から出版。
6月、《人民日報》《光明日報》に《一個母親敵建議》《一位専家,幾万児童》を発表。
9月、 の短編小説《 11月11日、《北京日報》に《一個埃及的引水員》(詩)を書く。
11月、《文芸報》第21期に《勇敢地向前ba,埃及的弟兄姉妹》を発表。

1957 58歳
1月31日、《中国少年報》に短編小説《小桔燈》を発表。
2月、《一九五六年児童文学選》のために序言を書く。
4月6日、《人民日報》に《観舞記》を発表。
4月25日、《中国少年報》に詩《別采了這朶花》
5月、《文芸報》第6期に《試談短編小説》を発表。
6月、《詩刊》第6期に《西郊短簡》を発表。
7月、《収穫》創刊号に《我的秘密》
10月1日、《国慶寄語海外的母親men》
11月21日、北京工芸美術研究所で郎紹安を訪問。《面人訪問記》を書く。

1958 59歳
2月、《詩刊》第2期に《春風得意馬蹄疾》を発表。
2月26日、《人民日報》に《我men這裏没有冬天》を発表。
3月11日、《再寄小読者》を書き、1960年までに21編になる。《人民日報》に《児童時代》を発表。
3月21日、《北京日報》から《北京的声音》を発表。
3月21日、中国文化代表団に参加、西ヨーロッパのを訪問、まずスイスに行き、イタリアへ。ローマ、ベネチアなど 大小20の都市を訪れた。
4月22日にイギリスへ到着、ロンドンとスコットランドに行き、
4月、散文集《帰来以後》を作家出版社から出版。
5月、人民文学出版社から石真との合同翻訳《泰戈爾(タゴール)詩選》を出版。
6月、《一個最高尚的人》、《十三陵工地的小五虎》、《大東流郷的四員女健将和女尖兵》、《十三陵水庫 工地散記》などを書く。
10月、ソ連のウズベク共和国でアジアアフリカ作家会議に参加。
11月、中国労働人民観礼団に参加。十月社会主義革命41周年式典に参加。

1959 60歳
2月8日、散文《我men把春天chao醒了》を《人民日報》に発表。
3月1日、散文《像真理一様撲素的湖》を《北京日報》に発表。
4月、《詩刊》第4期に《我是zen写〈繁星〉和〈春水〉的。
5月、《人民文学》に《回憶「五四《》を発表。
6月、タゴールの短編小説《夜中》、《吉莉巴拉》を翻訳、《世界文学》6月号に発表。
7月、《文芸報》、《北京日報》に《関於散文》、《京劇和演京劇的孩子》などを発表。
9月25日、《北京晩報》に《拾穂小札》を書き始め、1962年までで50編あまりを書き続けた。
9月下旬、《再到青竜橋去》を書き、10月8日の《人民日報》に発表。
10月、短編小説《回国以前》を《人民文学》10月号に掲載。

1960 61歳
1月、《北京文芸》に散文《像蜜蜂一様労働的人men》を発表。
1月、百花文芸出版社から散文集《我men把春天chao醒了》
4月、作家出版社から散文、小説、詩集《小桔燈》を出版。
7月22日*8月13日、第3回全国文学芸術会代表大会に出席。中国作家協会理事に選ばれる。

1961 62歳
戈 2,3月《文芸報》《文彙報》《人民文学》に《玉工的啓発》《談散集》《古戦場変成了大果園》などを発表。
3月24日、中国作家代表団に参加し、日本の東京で開かれたアジア・アフリカ作家会議常設委員会緊急会議に出席。
5月、タゴールの《孟加拉風光》を翻訳し、《新港》5月号に発表。
5月15日、中国文聯 6月、散文《櫻花讃》《中野緑子和小慧》《一寸法師》などを《人民文学》《人民日報》《民間文学》に掲載。
10月、散文 《毎逢佳節》《人民坐在「羅圏椅上《》を《文彙報》に《光明日報》に発表。

1962 63歳
2月12日、中国作家代表団に参加、アジア・アフリカ作家会議に出席。
4月、散文《尼羅河上的春天》を《人民文学》4月号に発表。《アジア・アフリカ作家的戦門友諠》を4月8日のの 《文彙報》に発表。
7月、《上海文学》に《一隻木ji》を発表。
11月、百花文芸出版社から散文集《櫻花讃》を出版。
12月、《加紊詩選》を翻訳、《世界文学》に発表。

1963 64歳
1月、レバノンの 短編小説《在火車上》を《児童文学叢刊》第1期に発表。
4月、《一九五九―一九六一年児童文学選集》序言を《文芸報》第4期に発表。
5月、《人民文学》5月号に散文《湛江十日》を発表する。
9月30日、《人民日報》に散文《三到青龍橋》を発表。
11月5日、日本を訪問。

1964 65歳
2月11日、散文《春天在招手》を《人民日報》に発表。
3月、作家出版社から散文集《拾穂小札》を出版。
朝鮮の詩3首、ネパールの詩2首翻訳し、《世界文学》1,2月号と4月号に発表。
6月、ルポルタージュ《zanmen的五個孩子》を《人民文学》6月号に発表。
12月、第3回人民代表大会の代表に選ばれる。

1965 66歳
11月30日、《光明日報》から散文《戦友》を発表。

1966 67歳
文化大革命初期、財産を奪われ、迫害を受けるが、間もなく周恩来総理の保護を受け、苦境から解放される。

1972 73歳
《因為我men還年青》(詩)を創作。

1973 74歳
1月、散文《桜花和友誼》を発表。
4月16日、中日友好協会訪日代表団に参加し、日本を訪問。5月18日帰国。
7月、散文《中日友誼源遠流長》を発表。

1977 78歳
散文《烏蘭託ya的話》を《天津文芸》第6期に発表。

1978 79歳
1月、短編小説《記一件最難忘的事情》を発表。 6月、《三寄小読者》の執筆を開始し、《児童時代》に発表。

1979 80歳
3月、散文《臘八粥》を《新港》3月号に発表。 5月、散文《我的故郷》《従「五四《到「四五《》を《福建文芸》第4,5期合併号、《文芸研究》に発表。 7月18日、《人民日報》に散文《等待》を発表。 9月、《文芸論叢》第八集に《回憶「五四《》を発表。 10月、中国文聯副主席に選ばれ、中国作家協会理事に選ばれる。

1980 81歳
1月、散文《近在眼前的地平線》《我的童年》を《西蔵文芸》第1期《朝花児童文学叢刊》に発表。 3月、《北方文学》3月号に短編小説《空巣》を発表。 4月、中国作家訪日代表団副団長に為る。 5月2日、《北京晩報》に散文《光輝 9月、百花文芸出版社から《晩晴集》を出版。 全国少年児童文芸創作栄誉賞を獲得。 12月、《児童時代》第24期に《生命従八十才開始》を発表。

1981 82歳
3月、《空巣》が優秀作品に選ばれ、全国優秀短編小説賞を獲得。 4月1日、《悼念茅公》を《文彙報》に発表。 7月、中国児童少年基金会副会長になる。 8月、人民文学出版社から訳詩《燃燈者》を出版。 《童年雑憶》《我到了北京》を《新文学史料》第3期、《収穫》第6期に発表。 1982 83歳
1月、散文《我和 3月9日《人民日報》に《我所欽佩的葉聖陶先生》を発表。 3月24日、《燈光》《為〈東方少年〉創刊而写》を《光明日報》に発表。

1985年 86歳
1月、「関于男人《連載始まる。夫の呉文藻が病気のため死去。

1990 91歳
誕生日を祝って北京・福州で集会が開かれる。「冰心児童文学図書賞《を創設。

1992 93歳
「冰心研究会《成立


作品集・単行本

     

邦訳

『女のひとについて』竹内実、朝日新聞社



参考書


作成:神崎麻里子