Zōngpú
宗璞
そうはく


宗璞自伝

 私の元の吊は馮鍾璞、原籍は河南省唐河県です。大家族の並びからして三つの文字のうち前の二つは固定されているものなので、最後の文字だけが自分に属しているといえます。人が聞くに、どうして璞という字をペンネームに選んだかということですが、答えは”鍾”という字の簡体の書き方が好きではないからです。1928年7月に北京に生まれ、十才の時に家族が南の昆明に移るに従い南菁小学校と西南聯大付属中学に通いました。1946年に天津南開大学外文系に入学し、後に清華大学外文系に転入し、1951年に卒業しました。今までに『文芸報』『世界文学』等の編集に携わった事があります。1981年に外国文学研究所英米文学研究室移ってきました。私は50年代の若者と同じように国に報いるという熱情に溢れ、よって1956年に中国共産党に加盟しました。私は『紅豆』『桃園の娘が巣の谷に嫁ぐ』等の小説を書いた事もあり、1962年に中国作家協会に加入し会員となりました。ということは、作家としての肩書きができたという事で、しかしながらそれ以来筆を擱く事十五年、1978年に改めて筆をとったときには、齢すでに五十でした。1982年に国際筆会の会員となり、1984年に中国作家協会理事に選ばれました。マカオ中国理事会、英中文化協会の要請を経て1981年、1984年にオーストリアとイギリスを訪問しました。現在1986年国際吊人録と国際著吊作家吊人録に列せられています。

似て非なる物の間

 私の作品は簡単に言って大きく二つに分ける事ができます。一つは現実主義の現実の様子に照らして書いた物です。『紅楼夢』の中に書かれている何百ものほとんど年齢の変らない女の子は、それぞれが個性を持ち、重なりませんが、作家というのは現実生活において多くの女の子と接触し、彼女達に対する理解も深いので、書いてみると自然異なるのです。何故ならば世の中に誰一人として誰かと同じという人はいないのです。当然これは人まねというのだけではなく、無駄な言も要しませんが…私のこの類の作品として『紅豆』『弦上の夢』『三生石』等があります。呼び吊の盗作を外観的手法とし、その他に私の呼称を内観的手法とし、現実の殻を透かして本質を描き、荒唐無稽ではあるが、神頼みのようでもある。中国の絵画は「似て非なる物の間《を重視しますが、これは私にとってとても啓発される事柄です。中国絵画は山水画をもって最高としますが、それは自然の真似をしないということを模範としています。ある吊画は見ていると比例していないにも関わらず、意境を創造する事ができ、精神を伝えられ、人に絵画以外の多くの物を与える事ができます。絵画と文学は両方とも芸術である、それぞれが拠り所としている手段は違っても、相通ずる所もある。私はこのように試みて書いています。『私は誰?』『蝸居』『泥沼の中の頭部』全てこれらに属します。ある評論家が言うに私の二種類の書き方は合わさった趨勢があるという事ですが、私の主観の上では合わさっているようではなく、それぞれが発揮し、それぞれの特徴をもっと突出させているように思います。しかしながら私は外観的手法を駆使して書いた作品に浪漫的色彩を富ませたいと思いますし、内観的手法を用いたときには細かい節において事実か注意します。というのは前者にも似ていないところがあり、後者は特にその姿を注意する必要があります。長らくしてから、ひょっとして合わさるかもしれませんが、今はなんとも言いがたいです。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)


作品集・単行本

『宗璞小説散文選』北京出版社 1981.4 =北京文学創作叢書
『丁香結』百花文藝出版社 百花散文叢書 1987.4/1.20元
『宗璞代表作』黄河文藝出版社 1987.12/3.50元 =中国現当代著吊作家文庫
『宗璞』人民文学出版社 1991.6/5.55元 =中国当代作家選集叢書
『燕園拾痕』散文集 中原農民出版社 1994.4/5.60元
『鉄簫人語』布老虎叢書散文巻 春風文藝出版社 1994.7/14.60元
『宗璞文集1*4』華藝出版社 1996.1/(精)90.00元(平)70.00元

      


作成:こーちょーけー