オンライン中国作家辞典

Yè Wénlíng
葉文玲
よう・ぶんれい
(1942-  )


 

葉文玲自伝:

浙江省南部の東海の海沿いは、山が青く,穏やかな川が流れている。わたしの故郷、玉環県楚門鎮の景色はさらに秀麗で、魚や米のよくとれる肥沃な土地である。
 わたしは戦争中で社会が不安定であった1942年に生まれた。家族が非常に多い、落ちぶれた地主の家庭の混乱は、幼いわたしの心に暗い影を残した。しかし、青々とした山や川の流れる田園風景と、刺繍職人の家庭に生まれた母の影響で、わたしは陶冶された。また、各地を回る劇団が常ならない人生の移り変わりを演じた劇のせりふと歌は、最初にわたしに文芸の栄養をあたえた。
 中学三年生で13歳の頃、新しく創刊された県の新聞に投稿してみた。その二編の短編小説は、意外にも続けて発表され、わたしは大学へ通うことになった。こうして作家になる夢はますますふくらんだのである。
 しかし、1957年の政治情勢はわたしにも及んで、夢は砕けっ散ってしまった。--復旦大学中国語学部を卒業した兄が右派にされ、わたしも受かったばかりの省で重要な学校--黄岩一高を除名されたのだ。
 その頃から、わたしの生活からは笑顔が消え、早くも厳しい人生を送ることになった。わたしは農業をしたり、民営小学校の教師をしたり、農場の労働者になったりした。生活の中の無数の苦しみが、わたしを躁鬱で感じやすく、早熟で粘り強い性格にした。たとえ、荒れ果ててさびしい古い社の小学校の教師をしたり、一面に葦の生えたアルカリ性の土地を開墾したりしていても、わたしは、やはり志を捨てず、必死にその夢を持ちつずけた。
 16歳のとき、わたしは仕事の合間に、一粒目の酸っぱくてしぶい小さな実を実らせた。『私と雪梅』である。このあと、似たような労働生活を描いた短編小説を何編か書いたが、それらはひっきりなしに、浙江省の『東海』という雑誌に掲載された。
 わたしは岩の合間から生えてきた雑草のように雨露や日光を渇望したが、頭上に落ちてくるものはいつも巨大な岩ばかりだった。1962年の夏に、農場が解散してしまったのである。わたしは、おおらかな河南省亡β山に住む兄の紹介で、彼の同僚と結婚することになった。
 すぐに一人めの子供が生まれた。1963年、夫は調鄭州で教師をしていた。わたしは戸籍を変え、仕事をさがして奔走したが、何年たってもいい結果は得られなかった。時代の軌道の外へ追い出されるような冷遇を感じ、苦しくて耐えられなかった。学校の図書館がわたしの唯一の心の支えであり、いつも子供を背負って夜遅くまで一生懸命勉強した。
 1966年に入って、やっと区の工業事務所で働けることになったが、安定した生活は、半年も続かなかった。“文化大革命”の荒れ狂った波が、またわたしたちに激しく押寄せて来たのである。生活の重荷がわたしを押しつぶすことはなかったが、文学に対する夢は、まるで花が枯れていくかのように、だんだんしぼんでいった。
 1976年、中国の大地には歴史的な変化がおこった。わたしの心の火種も春の風にふかれて再び燃え上がった。そして、1977年の春から『人民文学』、『人民日報』などの新聞に、小説や散文を続けざまに発表した。1979年には中国作家協会に加入し、その年末には河南省の文連に転任して、専属の作家になった。
 1980年、中国作家協会文学講習所を卒業。1981年には中国作家協会代表団とともにフィリピンを訪問し、さらに国際ペンクラブ中国センターに加入した。
 1983年には第六回全国政治協商会議の委員に選ばれ、1985年には中国作家協会の第四回全国代表大会で、理事に当選した。
 こうしてわたしの子供の頃の夢はかなった。この夢は一度こなごなに砕かれていただけに、とても貴重なもののように思えた。わたしは、失われた時間を取り戻すために一生懸命努力し、現在までに200万字近くの作品を書いた。それらの作品を通じて、生きることの真の意味を見出したかったのだが、それにはまだ遥かに及んでいない。しかし、このことがかえって、わたしに未来への憧れや追求を留めさせておいたのかもしれない。

     美は文学の命

 無我夢中になって追求を始めた。ペンを持ち、心の呼びかけに従った。
 わたしが真剣に固執していた追求が、幼い頃夢中になっていたことに変わってからは、文章を書くのが自分の生きがいとなった。良心と責任感のため、文字によって人々の情熱を燃え上がらせるために、わたしは書いた。
 故郷の香りは、その作家の作風の根底となる。故郷の青い山や川のおかげで、わたしは物事を清らかで明るい目で見ることが出来るようになったし、わたしの芸術的な素質も育ててくれた。だから、わたしはまず、自分の生活とインスピレーションの暖かい揺りかごである故郷に恩返しをしなければならない。
 わたしの生活は決して順調なものではなかった。しかし、苦しみが、わたしが生活を観察しようとする態度をなくさせたわけではない。苦難と不幸がわたしを興奮させた。人間性の中でも、美しく、善良で、素朴で、真摯なものにとりわけ心を惹かれた。わたしは美こそが文学の命だと思っている。文学は永遠に美を追求しなければならない。美をもって人々の心を暖め、慰めなければならない。力と希望を与えなければならない。
 希望は人間の最も貴重な財産であり、その希望に満ちた境地を作り出すのは、文学の崇高な使命である。
 文学は生活が育てる常緑樹である。たとえその樹の栄養が、生活の苦しみと作家の涙であったとしても、その果実には希望の果汁がつまっているはずだ。だから、美をふみにじり、希望を失った醜悪な現状を暴き出し、非難することも、文学を造るうえで不可欠なことなのである
。  わたしは一般の人々のなかで生活してきた。彼らの運命とわたしの運命はお互いに深く関係している。だからわたしは長年、違った時代の一般の人々の気持ちを表現したいと思ってきた。
 わたしは中国の大地の恵みを受けて育った。その伝統文化を深く愛し、民族の特色を十分に表現した東洋芸術を尊んでいる。わたしは現実主義の土壌に根をおろしたいと思っている。そして、伝統を継承していく中で外からの栄養を吸収し、新しい時代の考え方を書き出して、自分にすっかり忘れさせてしまうことは出来ないもの--つまり、わたしが文壇に登った時の自画像で、わたしの作品のマークにしている「藍色の腰巻をした田舎娘」を追求し、探索していきたい。

     作品目録

『無花果』短編小説集1980年上海文芸出版社出版
『心香』短編小説集1981年百花文芸出版社出版
『青灯』中篇小説 百花文藝出版社 1982.4/0.38元
『独特的歌』短編小説集1983年花城出版社出版
『長塘鎮風情』短編小説集 浙江人民出版社 1983.2/1.18元
『端渓夜話』中篇小説集 上海文藝出版社 1986.6/2.45元
『此間風水』中・短篇小説集 河北教育出版社 紅罌粟叢書 1995.3/12.80元
『葉文玲 中国当代作家選集叢書』小説・散文集 人民文学出版社 1997.3/19.00元

   

作成:伊丹 悦子