Wāng Zēngqí
汪曾祺
おう・そうき
(1920-1997)


汪曾祺自伝

 私は江蘇省高郵県出身で、1920年生まれである。西南聯合大学中国文学部卒業。大学時代には、著吊作家沈従文に創作を学んだ。1940年小説の発表を開始。かつては昆吊、上海で中学校の教師をしていた。その後北京市文聯、中国民間文芸研究会で仕事をし、「説説唱唱《や「民間文学《を編集した。
 1962年より北京京劇院で劇作家を務め、現在にいたる。私が書くもののほとんどは短編小説である。私は短編小説という形式がとても気に入っていて、これまでに長編や中編の小説は書いたことがない。散文や評論(文学や戯曲、民間文学に関するもの)も書く。
 若いころには詩を書いたこともあり、今でも時々少しばかり書いている。私の本職は劇作家で、京劇の台本も書く。中国古代作家の中で、私は明代の帰有光が好きである。中国現代作家の中では、魯迅と沈従文の影響を比較的深く受けている。外国作家の中では、チェ*ホフ、ついでスペインのアゾリンが好きである。 趣味は、絵(中国の水墨画)を描いたり、書道をしたりすることである。

世道人心を益する

 私が小説の中で描いている人物は、普通の人である。ほとんどは、私のよく知っている人である。英雄も書いている小説もあるが、私はその英雄を普通の一人の人間として描いた。私はごく普通の人の身の上に、人間の詩趣や美しさが現れるものと思っている。
 私は小説を書く上で、社会効果を考慮なければならないという主張である。一編の小説は、絶えず読者にたいして影響を及ぼしているのである。それは読者の精神境地を高揚させ、人に少しでも気高く生きていると感じさせるものでなければならない。私なりの言葉で言えば、「世道人心を益する《ようにせねばならないということである。しかし、このような影響は、潜在的でなければならない。杜甫の春雨を詠んだ詩にうたっているように、「風に従って夜潜入す、物を潤して細く声なし《でなくてはならない。わたしは、小説で人に教訓を与えることは主張しない。作者は読者の友人であり、教師ではないのだ。
 作者はひとりの文化的教養をもった人間でなければならない。私は一人の中国人であり、小さい頃から中国の書物を多く読み自然と中国伝統文化の影響を受けてきた。伝統文化の中では、私は儒家の思想の影響を深く受けている。儒家の思想には、よい側面がある。すなわち人間に対する尊重と関心である。私は宋の儒学者の次の詩句が好きだ。「ふと覚めると目の前が生気に満ちている、それでこの世に苦しんでいる人の多いことを知る《というものだ。私の小説は常に人間に対する同情を内包している。それでかつては戯れに自分を中国式の人道主義者と称したものである。
 私は若いとき西洋のモダニストの影響を受けた。しかし近年はリアリズムに回帰せよ、民族の伝統に回帰せよ、と主張している。
 小説のなかで激昂し慷慨してはならない。いかなるものにせよ、センチメンタリズムは要らない。小説は静かに、とくとくと語るべきである。
 小説は散漫であるべきだ。あまりに緊密な構造を持たせすぎてはいけない。蘇東坡は自分が文を書くときには、「大略は雲や水が流れるように、最初は定まった質がなく、常に行くべき方向に進み、常にとまらなければしかたがないところでとまる。文の理が自然であれば、姿態(イメージ)は後から後から生ずる《というが、短編小説はまさにこのようでなければならない、と私は思う。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社 1989)


作品集・単行本

『汪曾祺短篇小説選』北京出版社 1982
『晩飯花集』北京出版社 1985
『去年属馬』京味文学叢書 北京燕山出版社 1997.8/11.50元



邦訳

「安楽停(安楽居)《市川宏/訳 『季刊中国現代小説7』蒼蒼社 1988.10
「小学同級(小学同学)《市川宏/訳 『季刊中国現代小説13』蒼蒼社 1990.4
「橋辺小説三篇《市川宏/訳 『季刊中国現代小説26』蒼蒼社 1993.7
「受戒《徳間佳信/訳 『県立浦和西高校研究集録18集』1996.3

作成:黒木高智・青野繁治