オンライン中国作家辞典

Wáng Ānyì
王安憶
おう・あんおく
(1954- )



王安憶自伝:

 1954年3月生まれ。1969年中学校を卒業し、1970年4月人民公社の生産隊に入隊し、安徽省五河県に赴き 定住する。1972年11月、江蘇省徐州地区文工団(現在の徐州市歌舞団)の試験を受け入団する。1978年上海 に出向し、雑誌「子供時代《の小説の編集を担当する。1980年少年児童出版社の推薦により、中国作家協会 主宰の第五回文学講習所に参加し、同年講習を終了し、職場に復帰する。1983年アメリカのアイオア大学の 「国際創作計画《に参加し、同年の年末終了後帰国する。

私はどうして創作をするのか

 私はどうして創作をするのか?時々私は自分に問いかけますが、これは、一つの答えでは解決できない問 題であるということに気付くのです。
 その動機の芽生えはとても遅く、はじめは、とても小さな思いでしかありませんでした。
 私は小さい頃から作家になり、創作活動をしたいと考えていたわけではありません。私達はずっと良く勉 強し、進学して、医者かもしくは科学者になるように父母から言われてきました。その期待は、父母の辛酸 苦楽をなめ尽くした経験からでたものでした。父母は二人とも文学に携わり、さまざまな危険を経験してき たのです。これらは後になって初めて知ったので、当時は全く知りませんでした。ただ、自然科学に携わる 仕事はとても崇高な職業であると思っていただけでしたが、この考えはこの30年間ずっと私に影響を与えて きたのです。そこで私は奮い立って勉強に励み、全ての科目に大変興味を持ち、また素晴らしい成績を修め、自分でも進学は問題ないと思っていました。学校では理想教育運動が展開され、私達は自分の理想を口にすることを求められました。私は少しも躊躇することなく「農民になる《と言っていました。その時、大学のツバメとなり、農村は苦難と希望に満ち溢れており、珍しい色彩をおび、私の少しのロマンチックに呼応したのでした。多分私が農村へ行くなどとは、実際に考えたことがなかったからなのでしょう。私にとって農村とは一つの実現することのない夢のようなものだったので、このように少しも躊躇することなく口にすることができたのだと思います。
 私のたくさんの夢が全て破れ去ってしまったとき、何と、この空漠として、見通しの立たない農民になる という夢が突然かなったのです。「文化大革命《が始まり、わけの分からないままに小学校、中学校を卒業 し、人民公社の生産隊に入隊し、安徽省淮北に戸籍を移し、農民になったのです。
 私の数学のレベルは、四則演算が出来るだけで、物理、科学、外国語、生物についての知識は皆無でした。あの科学者になるという目標からは、ほとんど望みがないくらいにかけ離れており、その間には、橋も道路もありませんでした。私のすべての知識の中で、私の受けた五年間の小学校教育を越えられるのは、文学だけでした。そのために家の中の本と、読書の習慣が役に立ちました。家にはたくさんの本があり、家族は皆本と生活を送っていました。私は小さい頃既に、本を読んで眠りに落ち、本は、私にとって奇妙なほどに近いもので、私にとっては、始めから容易に理解できるものでした。本をたくさん読むようになると、ときどき日記に、本をまねて書いてみるようになり、そうして日記も、読書とともに習慣の一つになったのです。
 農村での苦しく寂しい日々において、本と日記は、ますます私にとって近い物となり、私の生活の一部分 となっていきました。農村から遠く離れていた頃には、あんなに素晴らしかったのに、その中に入るとすぐ、私は一人の農民となることに満足できないことがわかりました。まず第一に私は、自分を養っていくことが出来ないのです。私は抜け道を考えましたが、手持ちの武器は、この未熟な文章しかありませんでした。私は小説を書きました。どこにも発表できないとよく分かっていましたが、それでも書きました。たしか一人の知識青年が農村で大きくなっていく話を書きました。心の中での賞賛とは裏腹に、小説を書くということが無味乾燥な授業のように思えていました。これこそ私の作家になるという考えの最初の芽生えでしたが、芽生えた後また急速にその芽は消えていったのです。というのも、大学が新入生の募集を始め、それも現場の推薦によるとのことだったからです。私はずっと推薦されるのを待っていましたが、ついに推薦されませんでした。こうして一年間待っているあいだ、私は数学の独学を始めました。高次方程式まで勉強したとき、あの大学への夢はかなわないと分かり、私はすぐに別の道を考えました。
 その後、私は小さいときから、気晴らしとして習っていたアコーデオンで、徐州地区の文工団に合格した のです。始めの二、三年間、私はいたって平穏な日々を送り、自分でも、休むことの出来る落ち着く先を見 つけることができたと思っていました。
 文工団での生活は、とてものんびりしており、心に穴があいてしまったような気持ちになりました。なに でそれらを満たせばいいのか、自分でもわからず、だんだんと苦しみを感じはじめました。この暇をもてあ ます日々の中で、読書と日記は更に、生活から切りはなすことの出来ない物となっていきました。しかし、 本はますます手に入れにくくなり、日記も日を追って書くことがなくなっていきました。当時私は、周囲の 全ての事が日記に書くだけの価値のある事であるということに、まだ気付いていませんでした。私は自分の 生活にだけ注意をはらい、また自分の生活をとても小さく区切っていました。一日ごと、一ヶ月ごとに単調 な生活に苦しむようになり、ますます本を読み、日記を書く必要を感じるようになりました。このような循 環の中、日々強くなる寂しさと苦しみのため、私はまた、新たな道を探し出す必要を切実に感じました。
 この様に長年を過ごしても、手持ちの武芸はまだ増えておらず、やはりあの少しだけ上達した文章しかな く、そこでまた物を書く事を考えました。散文を一編書き、大きな集団のために小さな集団を犠牲にした農 村の知識青年の話を書きました。


作品集・単行本・翻訳


作成:佐藤理恵