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牛漢――創作談

魂から沸き上がるもの

 3-40年来、私は一種の情境と意象が融合して形作られた詩を好み且つ追求してきた。このような詩は、現実や歴史、自然、理想などに対する感受が、長い時期の沈殿と凝集、一瞬の昇華と爆発を経て、具象性と可触性を備えもっている。詩は生活の再現ではなく、人間が一生のうちで、もがいたり一歩ごとに血の滴るような心からの探求を経て思考し、生活のなかには存在しなかった情境を不断に発見し想像していくものなのだ。詩は声と色彩と炎を伴った激情であり、憎悪と悲痛のための忘却、身を投げ打って魂を追求するための欲求なのである。詩は現代のために書かれるとは限らないが、現代的感覚を持たねばならない。詩全体に染みとおる現代的感覚がなければ、過去をふりかえることも未来を夢想することも虚妄になってしまう。生活と運命のまえでは、誠実で勇敢な反抗者でなければならず、人生のイバラを避けてはならない。人のイメージは終始直立して未来を迎える開拓者である。低温での表層的凝結を求めず、生活と一定の距離をたもつ激情の無い冷ややかな創作を排斥する。外在的修飾を嫌い、詩的芸術の一度限りの自然形成を追求しようと努力し、文字表現の技巧に頼って詩を書かない。詩を一首書くたびに、初めて詩を書いたように感じ、その詩と過去の詩とは何の関係もないと感じる。つまり初めて詩を書くことを学んだころの敬虔さと神秘的な感覚を抱き続けること。人生と詩歌の領域で、絶えず抗争し、探索し、超越し、発見すること。新しい情境の発見がなければ、一行も詩を書かないこと。いったん発見して(それが魂の中から立ち上ってきたとき)熱狂的興奮状態に入る。その発見の瞬間が同時に詩の生命の誕生のときなのである。このような発見の激情と詩の律動は一致する。このように開拓者の勝利の激情がなければ、本当の意味での詩はないのである。そういった概念にもとづいて、私は詩の定型をもっとも憎む。私の作品に決ったあるいは安定した風格(他の人々とは異なるものであっても)があるというように人が言うのは聞きたくない。私は一編の詩はそれ自身が風格をもっているということしか認めない。評論家は私の数十年に及ぶ詩作のなかに何か目に見える軌跡を見出すことができよう。しかし私の一生の創作は、自分ではやたらと駆け巡るばかりで、向こう岸のある河の流れとは違う。私は創作においては、一生成熟せず、老練にならず、行き着くところに行き着かないようでありたい。生命は永遠にため息の出るような新しい傷を帯びている。私は絶えず自分を突破し、闘いながら前進しなければならないからだ。もし聡明に生活と一定の距離をたもち、自分の芸術的領土のなかを徘徊するばかりなら、それはもちろん安逸であろうが、その詩は必ず硬直したものとなる。たとえその表面が丸く潤いがあって優雅であったとしても。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)


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