オンライン中国作家辞典

Sū Shūyáng
蘇叔陽
そ・しゅくよう
(1938- )


蘇叔陽自伝

 かつて舒揚、余平夫などのペンネームを使う。1938年10月河北省保定市のある中流家庭にて生まれる。父親は新潮思想を持った物理専攻の学者で、母親は農村出身の女性。旧式の婚姻のため、両親は早くから別居したが、1960年になってようやく正式に離婚した。私は三男坊で、ふたりの兄と、妹がひとりいた。幼い頃から事実上母のもとで暮らしたが、都市の貧民のような生活だった。
 私は、十六才になる前から高校を卒業するまで保定市で、ずっと読書に明け暮れていた。1956年夏、北京人民大学歴史学科に入学。1960年卒業後、大学の歴史学科にとどまり、教鞭をとる。その後、前後して、河北北京師範学院、北京中医学院にて教鞭をとる。途中、工場で二年程板金機械工をする。
 50年代に入ると、地方新聞上に詩歌を発表した。大学では大学の刊行物や《北京晩報》、《中国青年報》などに詩、散文、曲芸などの作品を発表した。1974年以降、歌詞の創作も手掛け、4-50首の歌詞作品を発表し、並んで、5首の自分で作曲した歌曲を発表した。、1977年私の舞台脚本《丹心譜》は、北京人民芸術劇団によって初演されたが、反響は強烈で、国内外の注目を浴びた。1978年北京電影制片廠文学部に転属となり、専業創作に従事し現在に至る。

ビーフを食べても金髪にはならない

 文学が社会と人生の産物である以上、それが強烈な社会性を帯び、人生の判断において総括を与えることは必至であり、文学社会性の努力の消滅を図ることは、無駄である。当然、文学は、社会と人生に対する、作家の独特の感受性の記録である。と言うのも、それは作家の個性の深刻な印象を帯びるのは必至で、彼の自己の議論、感慨、叫び或はうめきを表わすからである。個性のない文学というのは、個性のない人がいないのと同じ様に、存在しないのである。もし無理に書こうとしても、それは文学とは呼びづらく、少なくとも良い文章とは言えないない。
 文学は作家の社会にたいする叫びで、大なり小なり社会効果を持つべきだ。責任感のある作家なら、少なくとも可能な限り多くの人に自分の文章を分かってもらい、自分の心情まで理解してもらうよう追求するのは当然である。読み終わった後、賛成してくれるかどうかは別のことだが。もしわざと他人に分からないようにしているのであれば、それは発表するべきではない。誰もが理解することのできない本というのは、書かなかったのと同じであり、しばらくすると作者本人にも理解できなくなってしまう。
 文学は世界の様々な民族が交流し、理解しあうための道具の一つであり、全人類が文明を発展させる手段の一つである。一つの民族の文学は、他の民族の文学と交流し、影響と相互の浸透・融合によってしか、長足の進歩と発展を得ることが難しい。しかしどのように融和しても、自分自身の鮮明な民族的特色をなくしてはならない。自民族文化の源流に立脚してはじめて、世界文学の林の中で、立ち行くことができるのである。西洋料理を食べるのと同様に、フランスのビーフを食べたからといって、我々の黒い髪、黄色い皮膚、黒い目を強くたくましくすることができるが、決して金髪や白い肌や青い目の背高のっぽに変わったりはしないのである。
 私には何も「経験《がない。しかし作家たるものは、長期にわたって生活の中の人や物事も含めた様々な現象を深く観察しなければならない。古今東西の人民大衆の生き生きと新鮮活発な口頭言語を学習し、人間や事柄を叙述する技巧を練習しなければならない。しかも作家はユーモアがなければならない。ユーモアのない作家には、生活の喜びや苦しみを味わうことが難しい。しかしそのユーモアは決して容易なことではない。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)


作品集・単行本

『老舎之死』中篇小説集 華藝出版社 1992.5/5.70元
『蘇叔陽代表作』中国現当代著吊作家文庫 黄河文藝出版社 1989.5/4.85元
『我是一個零』京味文学叢書 北京燕山出版社 1997.8/20.00元

  


邦訳

「人間周恩来 世界に慕われた大地の子《
 (大地的児子 周恩来的故事)竹内実/訳 サイマル出版会 1982
「故土《(故土)馬場与志子/訳 中国書店 1989.11


作成:木藤陽介・青野繁治