オンライン現代中国作家辞典

Lǔ Yànzhōu
魯彦周
ろ・げんしゅう
(1928- )


魯彦周自伝:

 私は、1928年10月3日に誕生、この世界にやってきた。生れたところは、安徽省巣県魯集、辺鄙で貧しい村であった。
 家は農民である。祖父は若い頃貧しく、力仕事をして、次第に自分の土地を手に入れて行った。祖父母には二人の息子が生まれた。長男は成人してからこの世を去り、嫁と一人娘を残した。次男が私の父で、字を幾つか知っており、農民ではあったが、あまり働かなかった。その妻は有能で賢明であったが、これが私の母である。我が家の労働力は祖父と寡婦の伯母と私の母であったが、私に大きな影響を与えたのは、祖父と母である。伯母はよく私に民話を話してくれた。
 私たちの村は、百戸余りの人家があったが、学校はなかった。村の前に魯氏先祖代代の祠があって、その建物のなかに私塾が設けられていた。私の啓蒙教育は、この私塾で行なわれたのである。教えれくれた先生は二人とも李という姓だった。二人とも古書をよく読んでいたが、20世紀30年代の中国ことについては全く無知で、二人とも阿片吸引者だった。
 学習の方法は暗記である。12歳まではそれで満足であった。それが当然だと思っていたのだ。しかしその後満足できなくなって、いろいろ手だてを弄し、「閑書《(訳注:小説のこと)をさがして読んだ。なかなか見つからなかったが…。其の後、ある同級生の家で『三国志演義』『水滸伝』『紅楼夢』『西廂記』を見つけ、至宝を得たかのように、私の心はそれらの作品に魅惑されていった。この間にも私は家族と外地に逃げ出して、小さな盥で巣湖を渡ったりもしたし、牛を飼ったり、田圃で働いたりしたので、勉強は断続的なものだった。
 抗日戦争に勝利したのち、私は村を出て学校に行きたいと思った。それで初めて巣県の県城に行き、補習班(訳注:予備校のようなもの)に通った。ある人の家に間借りして、水汲みなどの家事を手伝って、それを家賃替りにしたのである。1946年夏、困難を嘗め尽くした後、私はとうとう高級中学に合格した。最初は採石剛直中学に入り、それから定城湾沚聯中学に移った。1948年の夏、私は跳び級で私立の国学専科学校に入学した。しかし二ヶ月学んだ後、生活費に事欠いて帰郷し、それからほどなく革命に参加した。
 長江を渡る前、私は県の文教工作隊で働いていた。それから民衆運動工作を担当し、ある地区で民衆運動工作ステーションで長を勤めた。長江を渡ってのち、ほどなくして華東大学皖北分校で学んだ。1950年皖北行署文教処に行った。ほどなく、皖北文聯準備処で働くことになる。1952年安徽文聯準備処が成立し、私は文聯で働いた。この間に、私は行政、編集、下放参加センターなどの仕事をした。1954年最初の短篇小説を発表。1955年最初の映画シナリオを完成させる。1956年話劇『帰来』が全国上演優秀脚本一等を受賞。また1956年から専業創作幹部といえる身分となった。
 私は1952年に共産主義青年団に入団、1960年に共産党入党。積極分子、労働模範会議に何度も出席した。「文化大革命《前には、安徽省人民代表大会代表であった。現在は省の政治協商委員である。1982年に中国共産党第12期代表大会の代表に選ばれた。
 現在、中国作家協会理事、電影家協会理事、中国電影文学学会副会長、安徽省文聯副主席、隔月刊誌『清明』編集長の任にある。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)


作品集・単行本

『魯彦周小説散文選集』安徽人民出版社 1980
『天雲山伝奇』 中篇小説 百花文藝出版社 1983
『彩虹坪』長篇小説 上海文藝出版社 1983
『春前草』中篇小説 上海文藝出版社 1984
『正堪回首』エッセイ集 上海文藝出版社 1997.9/19.20元



その他の作品

「呼喚《電影劇本 『電影創作』1981
「廖仲愷《電影劇本 『当代』1981
「苦竹渓,苦竹林《中篇小説 『中国作家』1985.3
「山魂《中篇小説 『清明』1985.6


邦訳

『天雲山伝奇』田畑佐和子/訳 亜紀書房 1981.10



作成:青野繁治