Féng Jìcái
馮驥才
ふう・きさい
(1942- )


馮驥才自伝:

 私は1942年天津市生まれ、本籍は浙江省の慈渓である。1960年高級中学を卒業後、天津市のバスケットボールチームのセンターフォワードに選ばれた。しかし怪我をしたため、天津市書画美術社に転職し、絵画の仕事に携った。
 1974年工芸美術工場に転職。その間、商品のセールスマンをしたり、工場で働いたりした。1975年天津市の工芸美術工人大学で教師をし、国画と文芸理論を担当した。1978年天津市文化局創作評論室に転職し、その後作家協会天津分会に移り、創作専門の業務に携った。現在、全国政協委員、中国作家協会理事、中国民間文芸研究会会員、国際文芸交流会中国中心会員、美協天津分会会員、作協天津分会副主席、中国民間文芸研究会天津分会副主席、天津文連副主席、文学理論刊行物『文学自由談』の編集主幹に携っている。
 1962年、作品を発表し始める。初期の作品の多くは美術評論の文章である。
 1977年に長編歴史小説『義和拳』を出版(李定興との合作)。その後、次々とたくさんの作品を発表。ジャンルは小説、散文、報告文学、文芸理論、映画、テレビドラマなどである。
 

私の心の文学

 ある人が、私は文学において幸運に恵まれた人だと言った。だが私は、かつて生活において不幸だったどんな人でも、文学において幸運に恵まれる条件を持っていると信じている。生活があなたを思う存分略奪した後、初めて文学をあなたに贈ることができるのである。文学は生活の苦い果実である。たとえその果実が甘い味だったとしても。
 私は十年の大動乱の中で成長した。
 この大動乱と大改革は、社会を平面から立体にし、単一から複雑にし、亀裂の入った表層には、底の色が漏れ出ていた。底の色は、しばしば本質の色なのである。世の中は、波が巻き上がり異常に急増した時、初めて隠れていた全てが明らかになる。一般に、この巨大な変化を経験し、全てを悟った人は、必ず比べるものがないほど貴重な精神の財産を得ることができる。なぜなら、教訓の価値は、成功の経験よりも、決して低くないからである。私はこの中で、太平の世百年でも学ぶことができたとは限らないものを学んだのだ。だから私はペンをもって、多情になる必要はないし、もったいをつけて仰々しいことをする必要もないし、新しい詩を作るために憂いを強調する必要もない。心の中が充実して豊かであるなら、必要なのは簡潔で正確な言葉だけである。
 私達は耳で聞き、目で見て、ありのままに言うだけでよいのだ。そうすれば、最も想像力に富んだ古代作家のフィクションよりも人の心を揺さぶる。そしてまず、私が獲得したのは、厳かな社会における責任感であり、私が責任を果たせるのは、紙とペンによってであるとわかった。
 私はこの責任を筆の柄とカプセルの中に注いだ。その筆は重かった。もし私が筆の柄の中の全てを紙の注いだら――それは私の希望し、追求した、心の中の文学である。
 文学の追求は、作家の技術の追求でもある。
 技術の荒れ野においては、同じように、道を探す苦しみの経験が必要である。以前に人が歩いたことのある道は、みな死後の道である。楽しい遊覧地にいる時のみ、早くから手慣れた仕事をする準備が整っているのだ。
 真面目な作家は、自分の生活の中で発見し、使える表現方式を創造する。厳格に言うと、全ての方式は、それ特有の表現内容にのみ適合し、その他の内容は、また別の新しい方式を探さなければならない。
 文学は重複を許さない。それは他人のもの、自分のものに関わらずである。作家は一字でも使ったことのあるすばらしい格言は、再び筆の下に現わすことはできない。さもなくば、盗作になる。
 しかし、他人を追い越すことは簡単ではない。自分を追い越すことは、更に難しい。作家は、ただ自分の独特な生活経験、感受性、発見、および美学見解によって、他人を追い越すことができ、この追い越しは、一種の区別でもある。
 作家はどのような素質を備えているべきなのか。想像力、発現力、感受力、洞察力、捕捉力、判断力、めざましい形象思惟と慎み深い論理思惟、雑多な生活知識と全面的な技術の素養、巧みであること、不器用であること、機敏であること、粘り強いこと、世界中に対して好奇心があること、様々な形態の 事物の細部に非常に敏感なこと、様々な人の声と姿、笑顔、ふるまい、思想を、堅く、正しくつかむこと、全てのもの、つまり雄大で迫力があるものも細かくてはかないものも、形があるものもないものも、動いているものも止まっているものも、はっきりしていて繁雑なものもぼんやりしているものも、全て正しく表現できること。
 ペン先は湖南省の刺繍職人の針の先のようで、組み立ては筋道を破って陣を敷いたように、まるで魔法のように、命のないもの全てを、生き生きと描写する。さらに感覚が鋭敏で、感情が豊かで、境界が豊富である。作家の心の中は小さな舞台で、社会舞台の小さな模型で、生活の全ての経験と芸術の濃縮で、ここで再演され、かつ人物、情景、雰囲気、風情が絶えず激しく変化する。作家の能力の最高表現は、この上で、斬新的なものを創造し、模範的意義と、審美価値に富んだ人物である。
 私はこの中でどれほどの素質を備えているのだろうか。どのくらい欠けているのか知らないし、知る必要もない。生まれつき欠けているうえに、いままで何も身に付けていない。しかし文学芸術の中で、短所は長所に変わることができ、欠陥は、あるスタイルのなくてはならない条件を造り出す。左利きの書家の字、目の見えない画家の絵、声のかすれた歌手のしゃがれ声で人を夢中にさせる歌などは、弓のような三日月の美しさは、満月が取って代わることができないのと同じである。長篇作品を構成する能力に少なからず欠けている作家は、精巧で細かい短篇作品の巨匠となる。一つも条件が揃っていない作家でも、優れた技術を持っている。作家は更にある種の技能が必要であり、自分を認識し、得意とする方面を生かし、不得手な方面からの影響を少なくし、優勢を発揮し、自分の素質を技術の特色とし、技術を成し遂げた時、自分を成し遂げるのである。

(『中国当代作家百人傳』求実出版社1989)


作品集・単行本


『義和拳』上・下 長篇小説(李定興と共作)人民文学出版社 1977.12/1.65元
『鋪花的岐路』中篇小説集 人民文学出版社 1979
『ロ阿!』中篇小説集 百花文芸出版社 1980.4/0.31元
『馮驥才中短篇小説集』 中国青年出版社 1981
『彫花煙斗』短篇小説集 広東人民出版社 1981
『神灯前伝』長篇小説 人民文学出版社 1981
『愛之上』中篇小説 中国青年出版社 1982.6/0.37元
『意大利小提琴』短篇小説集 百花文芸出版社出版 1982.9/0.43元
『霧里看倫敦』散文集 百花文芸出版社 1982
『霧中人』中篇小説 百花文芸出版社 1983.1/0.38元
『神灯』長篇小説 人民文学出版社 1983
『走進暴風雨』中篇小説集 中国青年出版社 1983
『高女人和(女也)的矯丈夫』中、短篇小説集 上海文芸出版社 1984
『馮驥才小説集』四川人民出版社 1984
『馮驥才選集』百花文芸出版社 1984
『馮驥才代表作』中国現当代著名作家文庫 黄河文藝出版社 1987.5/3.85元
『陰陽八卦』中篇小説 百花文藝出版社 1988.4/2.30元
『一百個人的十年(首巻)』紀実文学 江蘇文藝出版社 1991.12/5.80元
『摸書』中国当代名人随筆 陝西人民出版社 1993.10第1版/1995.11第2次印刷/15.00元
『馮驥才雑文随筆自選集』群言出版社 1994.12/7.20元
『我是馮驥才』団結出版社 当代作家自白系列 1996.9/16.00元
『キ倉救老街』 西苑出版社 2000.9/20.00元
『馮驥才画天津』 上海文藝出版社 2000.10/24.00元

           

獲奨作品

『彫花煙斗』獲1979年全国優秀短篇小説奨
『ロ阿!』獲全国第一届(1977-1980)優秀中篇小説奨
『神鞭』獲全国第二届(1983-1984)優秀中篇小説奨


訳成外文的作品


『菊花』1985年在美国、西徳等国翻訳出版
『ロ阿!』1984年在蘇聯翻訳出版
『高女人和(女也)的矯丈夫』1984年在蘇聯翻訳出版

邦訳単行本

『庶民が語る文化大革命』田口佐紀子訳 講談社 1988.12.7/\1400
『三寸金蓮てんそくものがたり』納村公子訳 亜紀書房 1988.12.25/\1400
『陰陽八卦』納村公子訳 亜紀書房 1992.6.30/\1900

  

邦訳作品(単行本除く)

「100人の10年」大里浩秋/訳 『季刊中国研究8』1987
「BOOK!BOOK!」市川宏/訳 『季刊中国現代小説1』1987.4
「酒の魔力」市川宏/訳 『季刊中国現代小説4』1988.2
「神鞭」井口晃・湯山トミ子/訳 北京外文出版社 1991
「鷹挙」井口晃・湯山トミ子/訳 北京外文出版社 1991
「娘娘廟の思い出」井口晃・湯山トミ子/訳 北京外文出版社 1991
「早春の日」竹内良雄/訳 『季刊中国現代小説22』1992.7
「背たか女とちび亭主」井口晃/訳 『季刊中国現代小説28』1994.1

作成:谷垣有紀・青野繁治