黄樹則「病理学的一課」


[01整理番号]XX850507

[02作品名]病理学的一課

[03作者名]黄樹則

[04原載]『中国』1985年第一期

[05ペ−ジ]86−93(8ペ−ジ)

[06ジャンル]短編小説

[07時代]1984年、1934年

[08地点]北京

[09手法]リアリズム(エッセ−、ルポに近い小説)

[10視格]一人称

[11人物]私(王翼、男、50年前医学を志す。解剖実習の遺体の不自然な怪我が気に掛かり調査をする。後に八路軍に参加。)凌教授(男、1934年時点で50歳前後。私の病理学の先生。態度も穏やかで、威厳がある。日本留学の経験あり。)朱文丹助手(男、凌教授のお気に入りの弟子。まじめで情が厚い。私の行動につきあってくれる。後に軍医大学の教授となる。)沈強(男、学生時代の同室。的を突いた意見をだす人物。私の行動に付き合ってくれる。後に付属病院で外科医となる。)余大伯(古本屋の主人。二人の“三鬼子”をなだめようとした時に蹴られて床に伏せってしまう。)大文(男、余氏の隣の露天商、“三鬼子”の暴力を止めやうとして負傷してしまう。共産党の宣伝員。後に行方をくらます。)十歳ぐらいの少年(町の乞食、余夫妻にかわいがられている。飼っていた鳥がきっかけで暴行事件がおこる。その日の夜持病の肺結核で死亡。)その他(ヘロイン売りの日本人、憲兵第三団の二人=“三鬼子”、老工友、etc)

[12題材]老人の過去に対する思い。憂国。日本人、国民党によって荒らされている30年代の北京。医学。共産党。宣伝工作。生命の尊厳。ヒュ−マニズム。孤児、乞食。

[13主題]医学を通じて目の当たりにした、悪政下の市民の人間らしい行動を描く。

[14言語]普通話,医学用語

[15描写]老人が昔のことを思い出し、50年前の医学生時代の忘れられない事を詳しく述べてゆき、関係した人物の中国解放以後を語る。

[16構成]全112段落 章立てなし。
(1)私が過去のことをあれこれと回想する。(2)-(30)時代は1934年。私は北平の医学学校に入り、凌教授に教えを受ける。ある日、突然警察から実習用の無縁仏がとどけられた。私の知ってるそのこどもの死因は、肺結核だったが、指が数本無いのが気になった。(30)-(44)私がその子を見たのは大文の店で発禁本を買った後に寄った余氏の本屋であった。余氏は乞食ではあるが善良なその子をかわいがっていた。(45)-(67)不自然な指が気になった私は同室の瀋強に話し、朱文丹をふくめた三人で余氏に聞きに行くこととなった。(68)-(101)店のある通りに行ってみると大文の店は無く、余一人がカウンタ−に座っていた。というのも四日前、あの子の鳥が国民党の憲兵にとまったのを、つかまえようとしてゆびごと踏みつぶされてしまう。それを見た大文が憲兵の非を咎めるが、そのために、暴行を受け、禁本まで見つかってしまう。余大伯も彼らをなだめようとして蹴られて床に伏せっていた。(102)-(108)次の授業で凌教授は私に先の子の解剖結果を発表させてくれた。教授は聞き終わると、国家の病を憂いた。(109)-(112)それから16年後私は凌教授と再会する。彼は解放された中国をみることができたことを非常に喜んでいた。瀋強も朱文丹もそれぞれ医師となっていた。

[17問題点]解放を手放しで喜びすぎているのでは。全体的にものごとの白黒をつけ過ぎていてリアルさに欠ける一面も。

[18作者略歴]黄樹則、黄既。男、1914年天津生れ。北平大学医学院卒業後、1938年に延安へ行き医務に従事する。建国後、北京医院院長、衛生部副部長などを勤める。現在中華医学会老年医学会主任委員、全国衛生宣伝教育協会主席。1936年医学院の学生時代に文学月刊誌『文地』の制作に携わり、1937年北平文芸青年協会に加入し、『東方快報』の副刊誌『文芸青年』の編集を担当。編集と同時に、多くの小説、評論、散文、詩等の作品を制作し、建国後『春暉寸草集』を出版する、現在中国作家協会会員。

[19その他]魯迅の「藤野先生」を彷彿させる内容。「大衆生活」共産党のだしている雑誌

[20報告者]神谷宏明(1996,6,24)