Zhōngguó zuǒyì zuòjiā liánméng

中国左翼作家聯盟

ちゅうごくさよくさっかれんめい


左聯の成立

 1928年の革命文学論争を経、ソ連の「ラップ」、日本の「ナップ」などの成立も影響して、中国共産党中央は革命文芸運動の暴露された弱点に対して、革命作家の団体の設立を援助した。沈端先、魯迅ら12名が準備委員会を結成し、1930年3月2日に上海中華藝術大学で、中国左翼作家聯盟(以下「左聯」と略称)の成立大会を開催した。

 成立大会は、まず魯迅、沈端先、銭杏邨を主席団に推薦し、馮乃超が準備経過報告を、鄭伯奇が綱領草案の説明を行なった。潘漠華は中国自由運動大同盟を代表して講演を行った。魯迅、彭康、田漢、楊翰笙も演説を発表した。魯迅の演説は、「左翼作家聯盟に対する意見」という題であった。大会は左聯の理論綱領及び行動綱領の要点を承認し、マルクス主義文芸理論研究会、国際文化研究会、文芸大衆化研究会の設立を決定した。また聯盟の機関誌を創刊すること、各革命団体と密接な関係を結ぶこと、中国自由運動大同盟分会を組織し、左翼芸術大同盟の組織を始動させ、労農教育事業に参加し、国際左翼文芸団体との連絡を確立するなど、17項目にわたる提案を通過させた。大会は沈端先、馮乃超、銭杏邨、魯迅、田漢、鄭伯奇、洪霊菲を常務委員に、周全平、蒋光慈を候補常務委員に推薦し、常務委員会(後に執行委員会と改称)を組織した。常務委員会の下には、秘書処を設置、行政書記が日常工作の責任を担った。そのほかに、組織部、宣伝部、編輯部、出版部、創作批評委員会、大衆文芸委員会、国際連絡委員会などが設けられた。

 左聯の指導工作を担った人々には、成立大会で選ばれた常務委員を除くと、その後、茅盾、馮雪峰、柔石、丁玲、胡風、以群、任白戈、夏征農、徐懋庸、何家槐、林談秋らがいる。また左聯の中に、中国共産党の「党団」組織があり、党団書記を務めたことのある人物には、潘漢年、馮乃超、陽翰笙、丁玲、周揚などがいる。組織上、左聯は中国共産党中央宣伝部文化工作委員会(略称「文委」)の指導を受ける。

左聯の宗旨

我々の芸術は、封建階級に反対し、ブルジョア階級に反対し、「社会的地位」を失ったプチブルジョア階級的傾向に反対する。我々はプロレタリア芸術の生産に援助をし、従事しないわけにはいかない。

(「左聯理論綱領及び行動綱領」)

左聯の活動

 左聯は成立後、主に三つの方面で活動を展開した。まず第一に政治思想活動である。たとえば、デモ行進を行う、集会を開く、ビラを撒く、標語を張るなどの直接革命闘争を行なった。政治事件や左聯自身及び成員のために当局から迫害を受けると、決議を行い、声明を発表して左聯の態度を表明した。またファシズム文芸や反動文芸の思潮に対して闘争と批判を行なった。

 二番目は、文芸大衆化運動の展開である。1931年11月、左聯執行委員会は、「大衆化の路線を通して、すなわち運動と組織の大衆化、作品、批評及び一切の大衆化の実現によって初めて、我々の目前にある帝国主義と国民党に反対するソビエト革命の任務を完成させることができるし、真の中国無産階級革命文学を創造することができる」という決議を示した。左聯は三度にわたって、文芸大衆化に関する議論を巻き起こし、刊行物に大衆的作品を発表し、平民教育を組織するなどした。

 三つ目は、対外連繋及び国際活動への参加である。たとえば1930年11月、左聯は蕭三を代表として、ソ連のハルコフで開催された第二次国際革命作家代表会議に参加し、国際革命作家聯盟に加入し、或る意味でその一支部――中国支部となった。また左聯は北平、東京などで分盟(「北方左聯」「東京左聯」)を創立、天津、広州などで支部及び小組を設立した。

左聯の成員

馮乃超、陽翰笙、龔冰廬、孟超、莞爾、丘韻鐸、沈端先、潘漢年、周全平、洪霊菲、戴平万、銭杏邨、魯迅、馮雪峰、黄素、鄭伯奇、田漢、陶晶孫、李初梨、彭康、殷夫、朱鏡我、柔石、林伯修、馮鏗、王任叔、姚蓬子、葉霊鳳、韓侍桁、郭沫若、蒋光慈、王学文、郁達夫、戴望舒、楊邨人、李偉森、耶林、白薇、林煥平、魏金枝、張天翼、楼適夷、祝叔侠、袁殊、楊潮、周文、鄭郁之、葉以群、蕭三、楊騒、穆木天、彭慧、彭柏山、胡風、李輝英、徐平羽、何家槐、田間、李励文、聶紺弩、麗尼、王尭山、杜談、関露、馬子華、端木蕻良、方殷、沙汀、艾蕪、夏征農、尹庚、柳倩、王亜平、呉奚如、張天虚、杜宣、蒲風、林林、陳辛人、欧陽山、草明、呉強、劉毅慈、王西彦、曹靖華、馬加、周鋼鳴、葉紫、陳企霞、任白戈、周立波、劉白羽、宋之的、周而復、陳荒煤、徐懋庸、魏孟克、梅益、林淡秋、司徒慧敏、黄葯眠、蒋牧良、舒群、丘東平、茅盾、丁玲、胡也頻、周揚など。

左聯の文学的成果

 左聯はマルクス主義文芸理論によって自らの実践を導いており、積極的にマルクス主義文芸理論を宣伝した。魯迅、瞿秋白、馮雪峰はこの方面で少なくない翻訳紹介の仕事を行なった。創作の面では、左聯のメンバーは大量の作品を発表し、大きな業績を勝ち取った。たとえば魯迅の雑文、茅盾の『子夜』、『林家舗子』、『春蚕』、蒋光慈の『咆哮了的土地』(後に『田野的風』と改題)、丁玲、張天翼、葉紫などの小説、田漢、洪深、夏衍らの劇作、中国詩歌会の人々の詩などはいずれも広く影響を及ぼし、左翼文芸の実績を示した。

左聯への政治的弾圧


 鮮明な政治的色彩と強烈な革命的傾向によって、左聯は最初から当局の迫害を受けた。左聯の組織や左聯の通信員が取り締りをうけ、革命作家に圧力をかける様々な法令や条例が公布され、書店の刊行物を封鎖した。更に革命文芸工作者が秘密裏に殺害されたりもした。「左聯五烈士」の李偉森、柔石、胡也頻、殷夫、馮鏗は、1931年2月7日に上海龍華警備司令部で秘密裏に殺害されたのである。1933年7月左聯の常務委員洪霊菲が北平で逮捕され、秘密裏に殺害された。10月、潘漠華が天津で殺害された。11月、上海芸華影片公司、光華書局、良友図書公司、神州国光社が破壊された。このような悪劣な状況のもと、少数の左聯のメンバーは逃亡したり、投降変節に到った。しかし大多数の左聯の成員は闘争の策略を変え、闘争を続けた。

左聯の欠点

 左聯の仕事には、教条主義、セクト主義の誤った傾向があったが、それは主に当時の中国共産党の左傾路線の影響をうけたものであった。創作実践の面では、左聯のメンバーの作品は、比較的濃厚なプチブル意識に染まり、公式化、概念化の弱点をもっていた。

左聯の解散

 1936年春、民族危機が日増しに高まり、抗日救亡の新しい形勢に対応するため、中国共産党の指示に従い、左聯は自ら解散した。

左聯の評価

 茅盾は1980年3月の左聯成立50周年を記念する大会での書面発言で、「“左聯”は党の指導のもと、魯迅を旗手とし、三十年代に、“五四”文学革命の伝統を継承し、無産階級革命文学を唱え、マルクス主義文芸理論を紹介し、強力な左翼の進歩的文芸部隊を養成する分野で輝かしい業績をなし、糊塗することのできない功績を打ち立てた。その後の抗日戦争、解放戦争、全国解放以後の文化芸術事業のなかの到るところに、当時の左聯の同志が中心的な作用をなした跡を見ることができる。ゆえに、左聯はわが国の文学史上栄えある地位を有しており、左聯は中国革命文学の先駆者であるとともに、開拓者でもあった」と述べた。

左聯の主な刊行物

紙誌名創刊年月日主編(編集人)その他
『萌芽』月刊1930年1月魯迅
(馮雪峰、柔石、魏金枝)
第1巻第3期(1930年3月)から左聯の機関誌となる。
第5期まで出版し、国民党によって発禁。
第6期から『新地月刊』と改名するも、その号までで停刊。
『拓荒者』月刊1930年1月10日蒋光慈 第1巻第3期(1930年3月)から左聯の機関誌となる。
1930年5月に4-5期合併号を出し、発禁となる。
終刊号には『拓荒者』『海燕』という二種類の表紙がある。
『巴爾底山』旬刊1930年4月11日 5月21日第1巻第5号まで出し、政府によって発禁。
『五一特刊』1930年5月1日 36開、33頁。『文藝講座』『拓荒者』『萌芽』『現代小説』『新文化』
『社会科学講座』『新思潮』『環球旬刊』『巴爾底山』『南国月刊』
『藝術月刊』『大衆文藝』『新女性』の13の雑誌の合同発行。
各紙誌の付録としてつけられた。
『世界文化』月刊1930年9月10日世界文化月刊社 創刊号のみで停刊。
『前哨』
『文学導報』
1931年4月25日魯迅、馮雪峰 創刊号のタイトルが『前哨』、第2期から『文学導報』と改名。
第8期(11月15日発行)までで発禁。
『北斗』月刊1931年9月20日丁玲 上海湖風書局発行。
1932年7月20日の第2巻3-4合併号まで出して発禁。
『十字街頭』1931年12月11日馮雪峰、魯迅 4開4版のタブロイド新聞。最初の2期は半月刊。
第3期(1932年1月5日)に10日刊と記載したが、同期が発禁となる。
通俗的な短文や歌謡を掲載。
『秘書処消息』1932年3月15日 秘密発行。ガリ版ずり。
『文学』半月刊1932年4月25日 創刊号のみ。左聯の理論的刊行物。上海文学社出版。
瞿秋白「上海戦争和戦争文学」「大衆文藝的現実問題」
馮雪峰「論文学的大衆化」の3編を掲載。
『文学月報』1932年6月10日姚蓬子(1期と2期)、
周揚(3期以降)
光華書局発行。5-6合併号(1932.12.15)を刊行後、発禁。
『文学生活』1934年1月6日 秘密発行。ガリ版ずり。
『文学新地』1934年9月25日 創刊号のみ。
『毎周文学』1935年9月徐懋庸、周立波、王淑明 『時事新報』副刊『青光』のコラム?

左聯関連刊行物

紙誌名創刊年月日主編(編集人)その他
『文藝新聞』週刊1931年3月16日袁文殊、袁牧之、楼適夷、馮雪峰 1932年6月20日の第60期まで出して停刊に至る。
1932年2月3日より『烽火』戦時特刊を13期発行し、
上海事変(一・二八)の戦況を報道。
『文学雑誌』1933年4月15日 北方左聯機関誌。
同年7月31日の第3-4合併号の後発禁。
『文藝月報』1933年6月1日文藝月報社、三期は陳北鴎、金谷 北方左聯機関誌。第3期(11月1日)までで発禁。
『無名文藝』月刊1933年6月1日葉紫、陳企霞無名文藝社出版。創刊号のみ。
『文藝』月刊1933年10月15日現代文藝研究社(周文、劉丹) 第3期(12月15日)までで停刊。
『春光』月刊1934年3月1日荘啓東、陳君冶
『動向』1934年4月11日聶紺弩 『中華日報』副刊
『東流』月刊1934年8月 東京左聯機関誌。1936年7月停刊。
『訳文』1934年9月16日黄源 上海生活書店発行。
『雑文』『質文』1935年5月杜宣、勃生 東京左聯機関誌。
第4期(35年12月15日)より『質文』に誌名変更
1936年11月停刊。
『詩歌』1935年7月 東京左聯機関誌。1936年春停刊。

(以上 主に『中国現代文学社団流派辞典』上海書店1993.6に基いて整理)

参考図書など

『三十年代左翼文藝資料選編』 四川人民出版社 1980.11/1.58元
『三十年代在上海的“左聯”作家』 (上・下) 上海社会科学院文学研究所/編 上海社会科学院出版社 1988.4/9.30元 


作成:青野繁治