Xīnqīngniánshè

新 青 年 社

しんせいねんしゃ


新青年社

 1915年9月15日、陳独秀を編集責任者とする《新青年》(もとは《青年雑誌》、第2巻より改名)が上海で創刊され、上海群益書社から毎月1号、半年に1巻が発行された。

 1917年初め、陳独秀は北京大学文科学長に就任し、編集部もこれにともなって北京に移り、さらに組織も改造、拡大された。構成員は、陳独秀、胡適、李大釗、魯迅、銭玄同、劉半農、周作人、沈尹黙、呉虞、高一涵、沈兼士などである。1920年9月、第8巻第1号からは、また上海に移っての発行を余儀なくされた。

 《新青年》の発刊のことば《敬告青年》の中で、陳独秀は“民主”と“科学”のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えた。1916年、陳独秀は《新青年》で《駁康有為致総統総理書》、《憲法和孔教》、《孔子之道与現代生活》などの文章を続けて発表し、まず批判の矛先を孔子教に向け、“打倒孔家店”の闘争を展開した。李大釗は《新青年》第2巻第1号で《青春》を発表し、青年に“過去の歴史の網を突破し、陳腐な学説の牢獄を破壊し、現在の生き生きとした自分を白骨死体に束縛させるな”と呼びかけ、“民族の生命を新たに創造し、民族の青春を取り戻せ”と要求し、反封建の強固な態度を表した。

 続いて、《新青年》第2巻第2号に胡適の《文学改良芻議》を発表し、“八つの事”を提起した。“八つの事”とは以下の通りである。“一、文章には内容がなければならない。二、古人を真似ることはしない。三、文法を重んじなければならない。四、いたずらに感傷的にならない。五、くだらない議論や決まり文句は排除しなければならない。六、故事を引用しない。七、対句を重視しない。八、俗字俗語を避けない。”陳独秀はさらに続いて第2巻第6号で《文学革命論》を発表し、ここでやっと“文学改良”から“文学革命”に移行した。

 銭玄同が《新青年》で最も多く発表したのは通信形式の文章であり、その中でも陳独秀、胡適、劉半農に宛てたものが一番多かった。討論の内容はどのように新文学をつくり上げるかについてであった。彼は文章執筆の自然の成り行きと言語文字学の理論から、新文学確立の必要と可能を説明し、相次いで《斥頑固的国粋派》、《斥復古国粋派謬論》など一連の随感録を発表した。彼は初めて“桐城派と文選派”という2つの攻撃目標を明確にし、文言文に反対することと“暴虐な支配者”に反対することを関連づけた。他の人(胡適、陳独秀を含む)が文言で書いた文章によって白話文を奨励していた時に、彼はまた一番最初に白話で文通し、《新青年》を白話文に改めようという文章を発表した。銭玄同がこのように提案、実行した後、《新青年》では1918年出版の第4巻第1号から、やっと完全に白話文に改められた。特に貴重なのは、他の人がみな文学作品や論説文をどのように改革すべきかを重視していた時、銭玄同はまた一番最初に実用文について考慮し始めた。実用文の書式、数字の簡略化、編年体、左から書く横書きなどについて、改革の主張を表明した。これらは解放後にやっと一つ一つ実現されたが、《新青年》では早くから銭玄同が提起していた。

 銭玄同の中国新文学に対する貢献にはもう1つあり、それは彼が魯迅に中国新文学史上第一の名作である《狂人日記》(魯迅《吶喊自序》参照)を書くように勧め、1918年第4巻第5号《新青年》に発表させたことである。これにより、魯迅は《新青年》と直接関係を持ち、《新青年》の戦闘に参加することとなった。

 劉半農は《我之文学改良観》で《新青年》へのデビューを果たした。1918年3月に出版された第4巻第3号では《復王敬軒書》を発表した。同じ号に発表された白話文学に反対する手紙の署名は王敬軒であった。実は、この“王敬軒”というのは、銭玄同の仮名だったのである。手紙の中には当時最も保守、復古、愚昧であった人達のすべてのでたらめな論点が集められていた。劉半農は返信で、復古守旧派の醜い点を一つ一つ指摘、反論し、痛快に暴き出した。これに対し、魯迅は《憶劉半農君》の中でこのように回想している。“彼はもちろん《新青年》の戦士であった。活発で勇敢で、何度も大きな戦いに挑んできた。たとえば王敬軒の__に答えたり、“[女也]?”や“[牛也]?”という字を創り出したりといったことである。”この他、当時劉半農が提起した、白話文は文言文の長所を吸収することも必要である、文章は段落に分け、句読点や文章記号をつけなければならないといった主張はどれも重要な意義を持っている。

 1918年1月、《新青年》第4巻第1号から、6人の編集委員会が成立し、陳独秀、胡適、李大釗、沈尹黙、銭玄同、高一涵が交代で編集責任者を担当した。魯迅も編集作業に参加した。毎月1回定期集会を開き、各委員の他に、主に魯迅、劉半農、周作人などにも参加を依頼し、次号の原稿について話し合った。《新青年》は第4巻第1号(1917年2月)から白話文学作品を掲載するようになり、第4巻第1号(1918年1月)から全面的に白話に改め、文章記号を採用した。1918年1月、李大釗は《新青年》で有名な文章である《庶民的勝利》と《布爾甚維主義的勝利》を発表した。これは新文化運動の主要拠点の《新青年》が新しい歴史時期を過ぎようとしていることを示した。

 1919年5月李大釗は、彼に編集責任者の順番が回ってきた第6巻第5号の《新青年》を“マルクス主義研究特集号”と題し、《我的馬克思主義観》を発表、マルクス主義の3つの構成部分-政治経済学、科学社会主義、歴史唯物主義の基本観点について比較し、全面的に紹介した。その後、さらに《由経済上解釈中国近代思想変動的原因》、《唯物史観在現代歴史学上的価値》、《甚麼是新文学》など重要な文章を著し、《新青年》で思想革命と文化革命の大旗を掲げた。1919年末、陳独秀もマルクス・レーニン主義の発展の動向を受けて、《新青年》をマルクス・レーニン主義を紹介、評論、宣伝する重要拠点としていった。

 五・四事件以後、《新青年》では内部闘争が起こった。マルクス・レーニン主義を紹介、宣伝することに、胡適は一貫して反対し、刊行の方向を根本から転換させたいと思い、銭玄同、劉半農らを排除しようとした。銭玄同は胡適の意見に反対し、魯迅も正義のために公平に意見を出した。彼らは断固としてこう主張した。“この雑誌をもしあなた1人の手に渡るのなら、私達は絶対に投稿しない。”(沈尹黙《魯迅生活中的一節》)  文学革命の初期に、魯迅は一方で古典籍の中から暗い現状の歴史的な根源を探り、もう一方では自分が経験してきた生活を仔細に反芻した。いったんこれらが中国にとって有利なことであると決定すると、彼はもう後には引けないといった強固な態度で、参加し行動を起こした。彼の《新青年》での第一声は皆を驚愕させた。

 1918年5月、魯迅は《新青年》で現代文学史上初めての白話小説《狂人日記》を発表した。“これ以後は、ますます収拾がつかなくなる”(《吶喊自序》)。五四事件の数日前に出版された第6巻第5号の《新青年》(これが《マルクス主義特集号》である)で、魯迅の小説《薬》、《聖武》、《人心很古》など4編の雑文が発表された。その後続いて《我之節烈観》、《我們現在怎様做父親》などの有名な雑文を著し、さらに《新青年》で白話新詩を発表し、短く洗練された“随感録”を著した。彼は後にこの時期の作品を“遵命文学”と称し、これより彼は文化新軍の最も傑出した勇敢な旗手となった。

 《新青年》は上記の活動の他に、国外の新思潮、新文学の紹介も行っていた。1915年11月には早くも、陳独秀がヨーロッパの文芸復興以後の文芸思潮の変遷を紹介している。第4巻第6号の《新青年》は“イプセン特集号”とされた。1920年10月、鄭振鋒は《新青年》でゴーリキーとソ連の文学界の情況を紹介する文章を著し、ソ連の文学作品と文学理論も中国で紹介された。広範囲に深い影響を与えたロマン・ロランの《精神独立宣言》が李申府によって翻訳されて、《新青年》第7巻第1号に掲載され、同時にその《宣言》に署名した大勢の当時最も卓越した哲学家、文学家、科学家が紹介された。

 1920年11月、胡適は《新青年》編集委員会に“現在《新青年》は《Soviet Russia》の中国語翻訳本になったも同然だ。”とする書簡を送った。これにより、《新青年》の内部分裂の兆しが現れた。その後胡適は《新青年》の編集委員会から去り、1922年《努力》週報を刊行し、“中国固有の優れた文化を整理する”こと(国故整理)を宣伝した。周作人らは文学研究会に参加した。これにより、新青年社は1921年10月、ついに解散し、《新青年》は1922年7月、第9巻第6号で廃刊となった。


作成:大崎しおり