Hǎipài・HǎipàiXiǎoshuō

海派・海派小説

かいは・かいはしょうせつ



 「海派」が、流派として成立するかどうか、という点には疑問があるが、「海派」という言葉は、中国現代文学史ないし中国現代文学研究の分野において、しばしば用いられてきた。問題はその言葉の表す中味が、それぞれの時代によって変わってきたということであろう。
 最初に「海派」という言葉が用いられたのは、文学の分野ではなく、京劇の分野であったらしい。それも「正統派」から見た異端として軽蔑の意味をこめて「海派」という言い方がなされたという。
 それが文学の分野で用いられるようになったのは、1930年代の有名な「京派」「海派」論争からである。沈従文と蘇シ文のやり取りに端を発するこの論争は、魯迅のように、京派が官僚に奉仕し、海派が資本に奉仕するものに過ぎないと揶揄するかたちで、両成敗の結果に終ったとは言え、結局、誰が京派で誰が海派か、京派とは一体どんな集団なのか、海派とは一体どんな集団なのか、という面で十分整理が出来ていなかったため、後の時代にも誤解と論争のタネを残すことになった。
 しかし現在に到るまでの「海派」という用語の中味をたどってみると、大まかに次のような流れを見て取ることができる。すなわち20世紀に入ってから出版の中心地上海で最初に大きな勢力をもったのは、「鴛鴦蝴蝶派」の才子佳人小説であった。清朝末期から民国初期にかけての出版資本の成長に乗って登場してきた、この通俗小説作家を中心にした文人グループは、西洋近代文学の導入によって文学の新しい面を切り開こうとした北京の魯迅、周作人といった『新青年』グループによって、上海の「旧文学」「旧小説」「黒幕小説」として猛烈な攻撃の的とされた。魯迅の一連の雑文は明らかに「海派」の源流をこの「鴛鴦蝴蝶派」に見ている。
 1920年代日本留学生のグループ創造社のメンバーが、上海の泰東図書局を根拠地にして活動しはじめると、それは『新青年』の流れをひく「文学研究会」との間で対立を生ずることとなった。魯迅は後に創造社の郭沫若に対して「新才子派」という称号を冠しているが、これは彼らが「鴛鴦蝴蝶派」の流れを汲むものであるという認識を示している。それを受けて後の文学者には、「文学研究会」は「京派」で、「創造社」は「海派」という解釈をするものも出た。張資平が「海派」に入れられるのもこのような流れからである。
 1930年代には、上海事変で上海の出版界が打撃を受けた間隙を縫って、現代書局の『現代』が登場し、現代書局の編集人である杜衡や葉霊鳳と左翼作家聯盟を中心とする左翼作家たちとの対立構図は、やはり魯迅を中心とするグループとそれに対立するグループという印象をもって受け止められた。特に施蟄存、穆時英、劉吶鴎の新感覚派グループが、上海という都市の頽廃的風俗を描いたこと、それから彼らが「京派」「海派」論争や「第三種人」論争で、左翼からの攻撃の的となったことが、彼等を「海派」と認識させる一因となったであろう。
 1930年代後半には「鬼恋」の徐訐が登場し、1940年代には、「金鎖記」の張愛玲が登場する。彼らは「新感覚派」と同様、それまでの左翼中心の文学史に対する1980年代の見直しのなかで再評価されるようになったのだが、同様な流れで再び登場してきたのが、「大上海之毀滅」を書いた黄震遐などである。
 要するに、中国現代文学において、「海派」という呼び方がなされる作家ないしグループは、何らかの形で、従来文学の主流と考えられてきた流れと対立してきたのだった。従って「海派」と呼ばれることには、常になんらかのマイナスイメージが付き纏ったのである。
 1980年代以降、その情況は変わってきた。例えば王安憶や程乃珊など上海を中心に活動する作家を 「海派」グループにくくることによって、「海派」イメージの刷新=プラスイメージ化を図る動きが、上海の社会科学院や出版社を中心に出てきたことである。しかし、それはある意味で政治主導型の1980年代までの文学のあり方から、出版資本主導型の1990年代の文学のあり方への移行の反映であり、「海派」の新たな台頭は、魯迅の言う「官的幇閑」から「商的幇忙」への移行を反映しているに過ぎない、とも言える。


書誌データ

中国現代文学史参考資料「海派小説専輯」魏紹昌/主編 上海書店影印 1989.12
研究書・参考書
海派作品集
海派文学叢書
海派小品集叢
中国海派滑稽小説
海派文化長廊
海派名家名作賞析


作成:青野 繁治

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