Chuàngzàoshè

創 造 社

そうぞうしゃ


創造社の成立

 1921年4月初め、郭沫若成仿吾は日本から上海に戻り、泰東書局編訳所の編集員として招かれ、刊行物出版の計画を検討した。5月末、郭沫若が日本に戻り、6月8日、東京の郁達夫の下宿で、郁達夫、張資平何畏徐祖正らと協議した結果、団体を組織すること、刊行物は「創造」という誌名とすること、季刊誌及び叢書を出版すること、原稿は皆で分担することを決定した。この集会が創造社の成立のメルクマールである。

 1921年7月成仿吾は調査に兵工廠技正として赴任、郭沫若は日本から上海にもどって、1919年から1920年にかけて書いた新詩集『女神』(全57編を収録)を「創造社叢書」の一冊として、泰東書局から出版した。9月には郭沫若は日本に戻り、医学の勉強を続けた。彼は郁達夫に上海に戻って『創造季刊』編集の仕事を担当するよう要請した。

 郁達夫は1921年9月29日から30日にかけて、上海の『時事新報』に『創造季刊』がまもなく出版されるという予告を掲載した。このとき公表された創造社の同人は、田漢、郁達夫、張資平、穆木天、成仿吾、郭沫若、鄭伯奇の7名であった。

 10月郁達夫の短篇小説集『沉淪』が「創造社叢書」第二冊として出版された。それは「沉淪」「南遷」「銀灰色的死」の3編を収めている。『女神』と『沉淪』の出版は、社会に大きな影響を巻き起こした。

 1922年5月1日、『創造季刊』創刊号が泰東書局から印刷発行された。編集担当は、郭沫若、郁達夫、成仿吾らであった。

初期創造社の主張

 初期創造社(1921.7-1925.9)のメンバーは、芸術の為の芸術を主張し、美に対する追求を芸術的核心と考えた。人生のための芸術、自然主義、写実主義に反対し、浪漫主義に傾倒した。創作面では比較的多く、自我を表現するという色彩を有していた。

文学研究会との論争

 1921年から1923年にかけて、創造社は文学研究会と論争を繰り広げた。文学研究会は成立準備に際して、日本にいた田漢、郭沫若に手紙を出して、発起人となるように誘い、後に直接会って入会を要請したが、拒絶されたばかりか、「コネ」をつけていると誤解されたのだった。

 創造社成立後、『時事新報』に発表された「創造季刊出版予告」には、「文化運動が発生してより後、わが国の新文芸は一二の新しい偶像によって独占されている」と述べられており、文学研究会同人の困惑と不満を招いた。

 1922年5月、『創造季刊』創刊号が、新文学の批評家が「偽批評家」であり、「木斗」で「狂妄」である、と攻撃する文章を載せるに至って、遂に茅盾が「『創造』が私に与えた印象」を書いて反論に及び、こうして二つの団体の衝突が表面化した。

 もともと両方とも新文学の団体であり、封建主義や旧文学に反対することを提唱していたが、文学の社会的功利性についての考えが異なっており、これがこの論争の核心的な論点となった。

 文学研究会は「人生の為」の現実主義文学を主張し、文学の社会的功利作用を強調した。創造社は初期は「藝術の為の藝術」を提唱し、作家は内心の要求に基づいて文学活動に従事するのであって、芸術それ自体には目的というものはない、とした。彼らは文学が社会的人生の反映であると認めず、「真の藝術作品は、当然純粋の主観から生れるものである」(郭沫若「国内の批評壇および私の創作に対する態度」)とか、「もし創作家が純粋に功利主義を創作の前提とし、上には文芸を宣伝の武器として利用しようとしたり、下には、文芸を飯のタネにしようと考えるのであれば、私は敢えて、それが文芸の堕落であると断言する。それはあまりにも文芸の精神からかけ離れている」(郭沫若「文芸創作の使命」)と考えた。

 これに対し、文学研究会の茅盾や鄭振鐸は、大量に理論的文章を発表し、正面から「文学は人生の為」という主張を説明し、創造社の「芸術のための芸術」の主張を否定した。

 そのほかにも、外国文学の翻訳紹介に関して、創造社と文学研究会には重大な不一致が存在した。文学研究会は、世界の近代、現代文学とくに弱小民族の文学の翻訳紹介を重視し、古典的作品に対しては、急がないことを主張して、創造社の意見と対立した。1922年7月、茅盾は『小説月報』第13巻7号の「通信欄」で、読者の質問に回答するに際し、「ファウストなどの作品を翻訳することは、私の考えでは、現在差し迫った必要のあることではないと思います」と表明した。郭沫若は文章を書いてこれを非難し、「他人が『神曲』や『ハムレット』や『ファウスト』などの本を翻訳しようと言っているのに、それは不経済であるとか、差し迫って必要でない、とか言うのか。それに何が見えなくなるというのか」(「文学の研究と紹介を論ず」1922年7月21日『時事新報・学灯』)と述べた。かくて双方の論争は、互いのあら捜しをするにいたり、相手の翻訳における誤訳を指摘しあうまでになった。

 創造社と文学研究会の論争は3年の長きに及んだ。論争を通じて、両団体は文学観念上次第に接近し、理論的には互いに補完作用を果たした。創造社は次第に文学の功利性に注目するようになり、文学研究会も日増しに文学の芸術性を重んずるようになった。

『創造週報』『創造日』

 1923年4月、郭沫若、郁達夫はともに上海に到達、成仿吾とともに創造社の仕事を担った。彼らは『創造季刊』のほかに、1923年5月13日に『創造週報』を創刊し、上海泰東書局から発行した。刊行物の影響力は比較的大きく、何度も刷り増しを行った。7月21日、創造社は『中華新報』誌上に、『創造日』副刊を設け、成仿吾、郁達夫、鄧均吾が編集を担当した。創造社の影響は不断に拡大し、出版物の売れ行きもよかったが、書局が創造社同人に提供した編集の報酬は安く、原稿料や印税も支払われなかった。経済的原因から、創造社のメンバーはお金を稼ぐためにかけまわらざるを得なくなり、刊行物も相次いで停刊となった。1923年11月2日、『創造日』第100期を出して停刊。1924年2月28日、『創造季刊』第2巻6期までで停刊。1923年5月19日、『創造週報』52期までで停刊。

出版部の成立と『創造月刊』

 1926年3月1日、創造社は正式に出版部を設立した。7月には、北京、武昌、楊州、長沙、綏定、広州、済南、日本などに出版部の支部を設立した。1926年3月26日には、『創造月刊』を創刊。

 時まさに大革命の前夜であったので、創造社の主要なメンバーは次々に当時の革命の策源地である広州に向かった。7月、郭沫若が北伐に参加。9月、創造社は広州で出版部の第一回理事会を開き、「創造社章程」および「創造社出版部章程」を討論し承認した。また選挙によって、創造社本社の第一期執行委員会、出版総部第一次理事会および第一次監察委員会を誕生させた。

 『創造月刊』の創刊初期の内容と性質は、ほぼ『創造季刊』と同様である。第1巻第1、2期は郁達夫の編集、第3、第4期は成仿吾の編集である。第12期から創造社文学部の編集となった。『創造月刊』は全部で、2巻を出しているが、第1巻は12期、第2巻は6期を出している。第2巻から、改革によって、内容が大きく変化し、純文芸雑誌から、革命文学を提唱する「戦闘的陣営」へと移り変わっていった。それが創造社の後期の活動の開始の標である。

後期創造社の活動

 1927年10月、 馮乃超、朱鏡我らが日本から上海に戻り、国内の創造社同人と合流して、創造社後期の文学活動を展開した。1928年1月中に、郭沫若、鄭伯奇らは魯迅と共同戦線を張ることを決定、『創造週報』を復刊し、元旦付けで出版された『創造月刊』第1巻8期上に、魯迅、郭沫若、成仿吾、鄭伯奇、蒋光慈らの署名する「『創造週報』復活宣言」を発表した。

 しかしこの時おりしも日本から帰国した創造社の新メンバー李初梨、馮乃超、朱鏡我らは、この連合が創造社の新段階を代表するものではないと考え、この三名によって別に、政治理論と文化批評に傾いた『文化批判』が、1928年1月15日に上海で創刊された。

 かれらは無産階級文学を提唱し、無産階級文学にかんする理論的探求を重要視した。例えば、馮乃超は、『文化批判』第1号に「芸術と社会生活」を、李初梨は第2号に「どのように革命文学を建設するか」を発表し、作家が「方向を転換」して、無産階級文学を建設するという理論を打ち出した。彼らの文章は、葉紹鈞、郁達夫、魯迅、郭沫若、張資平の文章を批判し、創造社、太陽社と魯迅との間に「革命文学」問題に関する論争を引き起こした。彼らはまた「新月派」のあるメンバーの観点も批判し、またある人々の提出した「国故整理」の主張にも反対した。『文化批判』は合計5期出版された。

 1928年以降、郭沫若は難を逃れて日本に住み、中国古代社会と甲骨文など古文字学の研究に従事し、成仿吾はフランスに留学した。田漢は早くから創造社を脱退し、郁達夫も1927年8月に脱退、張資平は別に書店を開き、王独清は、創造社から除名された。創造社初期の中心人物は尽く創造社を離れたことになる。

創造社の解散

 『創造月刊』は、第2巻第6期まで出したところで停刊。1929年2月、創造社は国民政府によって閉鎖された。閉鎖に際して、保存の手段を講じたあらゆる書籍や紙型を用い、1929年8月江南書店の名義で、『新興文化』を発行した。

 1930年春になり、創造社のメンバーは大部分左翼作家聯盟に加入した。彭康は中国社会科学家聯盟に転じ、朱鏡我は中国左翼文化総同盟(略称「文総」)で働くことになった。こうして創造社は自動的に解体し、活動を停止したのである。

 この間、創造社によって編集出版された刊行物には、他に『洪水』週刊、『洪水』半月刊がある。週刊のほうは周全平、厳良才の編集で、1924年8月20日創刊、文芸批評に偏った内容であったが、泰東書局から1期でたのみである。1925年の夏、周全平、洪為法らは『洪水』の復刊を準備し、月刊に変えることとした。