Qīyuèpài

七月派

しちがつは


解説:

 1937年9月11日『七月』週刊が上海で出版されて間もなく、編集者が大半武漢に移動してしまったため、3期出した後に停刊となった。1937年10月16日、彼らは武漢で再び『七月』を創刊し、半月刊に改めた。1938年9月まで18期を発行している。その後戦局の変化に伴い、一年間中断したが、1939年の7月に重慶で月刊誌となり、1941年9月まで続いた。皖南事変後、形成がますます悪化したことにより終刊となったが、前後して4年間継続したことになる。
 『七月』に詩歌を発表した作者には、胡風、田間、艾青、孫鈿、天藍、荘湧、燕郊、魯藜、SM(亦門、阿壟)、冀汸、杜谷、蘇金傘、侯唯動、鹿地亘、緑川英子、辛克、鍾暄、雷蒙、方冰、又然、楊雲道、艾漠、白莎、倪受乾、丹輝、羅岡、史輪、史螺、魯沙、艾烽などがいる。彼らの詩歌理論面の基本的な考え方は、詩歌の時代精神と革命的傾向を強調し、正しく現実の闘争を反映することを強調し、詩人の純潔性と、詩歌の厳粛性を強調し、自由詩を提唱することで、それによって客観的に一つの詩歌流派を形成している。抗日戦争が勃発すると、七月派の多くは、いち早く実際行動をもって、この激しい抗日闘争の中に参加していった。たとえばSMは上海の激戦を自ら体験し、魯藜、天藍、方冰、艾漠らは前後して抗日民主根拠地に身を投じた。このときから、1945年初めまでの3年あまりの間に、彼らは比較的集中して、桂林の『半月文藝』『詩創作』、重慶の『詩墾地』などの雑誌に作品を発表した。胡風が編集した『七月詩叢』(第1集)12冊、『七月文叢』中の一部の詩集併せて4冊、も前後して重慶、桂林、香港などで出版された。
 1945年1月、七月派は『希望』雑誌を創刊、七月派の第二の重要段階の目印とした。『希望』第1集4期は重慶で編集印刷され、しばらく後に上海でリプリントされた。第2集4期は1946年5月から10月にかけて、すべてを上海に移して編集印刷出版された。『希望』誌上に新しく出現した詩人には、朱健、公木、牧青、魏本仁、方信、緑原、楊令、朱谷懐、牧明、聖門らがいる。この時期は、ちょうど抗日戦争勝利前後で、国統区の政治的雰囲気は低く押さえつけられていたが、抗戦初期の高揚した雰囲気とはがらりと異なっている。作者たちの暗黒の現実に対する認識はますます透徹したものとなった。『希望』に発表された作品は内容から見て、暴露と諷刺が比較的多く賞賛と熱望にとってかわっている。これは闘争の形勢と実際生活の創作における真実の反映である。
 『希望』が停刊してのち、七月派の作者は前後して『螞蟻小集』『呼吸』および『荒鶏小集』などを編集出版した。これらの作品は、いずれも七月派の基本的創作傾向を継承している。
 同時に、上海では『七月新叢』『七月文叢』(第2集6冊)が次々に出版された。後者は1948年に編集を終えていたが、出版は解放後の1951年になった。七月派の活動はこのときに終結したと言ってよい。
 七月派の代表作品には、胡風の選んだ『我是初来者』、艾青の『向太陽』、胡風の『為祖国而歌』、田間の『給戦闘者』、魯藜の『醒来的時候』、天藍の『予言』、冀汸の『躍動的夜』、緑原の『童話』、 鄒荻帆の『意志的賭徒』、亦門の『無弦琴』、杜谷的『泥土的夢』、牛漢の『彩色的生活』、化鉄の『暴風雨岸然轟轟而至』、孫鈿の『望遠鏡』、賀敬之の『並沒有冬天(第2輯)、莊湧の『突圍令』がある
 七月派の共通の芸術的特徴は、①政治の傾向と生活の真実性の基本的一致、②激情に富むこと、③創作方法においては、おもに革命的リアリズムを用いるが、時にはロマン主義や象徴的手法を用いることもある、④五四自由詩の戦闘的伝統を継承、発展させ、内容と形式の統一を基本的に達成した、ことである。

中国現代文学社団流派辞典上海書店1993.6)


関連資料



《七月》、《希望》作品选(上)(下)

  中国现代文学流派创作选

  人民文学出版社 1986.7/7.00元  



 


作成:青野繁治