新刊 Mother-tongue in Mondern Japanese Literature and Criticism: Toward a New Polylingual Poetics.
( Palgrave, 2018)

   「母語」の概念が近代日本文学・文芸批評・言語学などの中でどう機能してきたかを、明治初頭の「国語」をめぐる言説、言文一致運動から在日朝鮮人文学、最近のエクソフォニー文学に至るまで検討し、ネーションと言語の関係の政治性を明らかにし、母語およびネーティヴ・ランゲージとの間の共犯関係を示し、最終的には(モノリンガルなものとしての)「言語」そのものの解体の道を探る。

https://www.palgrave.com/us/book/9789811085116

日本比較文学会関西大会 シンポジウム「関西・浄瑠璃・文学」(司会・講師 ヨコタ村上孝之)  特別講演「戦争とマンガ」(司会 ヨコタ村上孝之 講師 里中満智子)
 詳しくはこちら。ぜひご来聴を。

『世界のしゃがみ方――「和式」「洋式」トイレの謎をさぐる』

(平凡社[平凡新書]2015年)刊行。世界のトイレの観察記と、その風俗史的・比較文化的考察。楽しく読めます。注文はこちらhttp://www.heibonsha.co.jp/book/b208126.html書評はこちらhttp://honz.jp/articles/-/41882

現代アゼルバイジャンの作家カマール・アブドッラの小説『魔術師の谷』を翻訳出版しました(東京 未知谷 http://www.michitani.com/)。遊牧民の生活を舞台に、宿命の愛、復讐、父子の絆を描いた感動の大名作。ぜひご一読を。(2014年1月)

『金髪神話の研究――男はなぜブロンドに憧れるのか』(平凡社[平凡新書]2011年)刊行。金髪フェチの方もノンケの方もぜひご一読を。

20082月29日、個人ホームページを開設しました。ここには。楽しいプライベートな内容を中心に発表していきますので、ご期待ください。

ニューヨーク便り 一(2008年2月から9月の米国研修の記録)

 フルブライトの研究者・ジャーナリスト派遣プログラムというものに乗って、ニューヨークに移ってからはや五か月がたった。研修の残り期間は、三か月に過ぎない。いまさらニューヨーク便りなのだが、書こう書こうと思いながら、はじめのころはいろいろと忙しくてひまがなかった。六月に入って、大学も教師は学校に来ないし、学生たちも故郷に、あるいは旅行へと旅立ってしまって、キャンパスはひっそりしている。わたしが研究室をもらったヘイマン・センターという建物も、今日は独立記念日だということもあって、まるで静かである。こうして少し落ち着いた気分の中で、ちょっとニューヨークで感じたことなどをまとめてみようかと思い立った。
 今回の研究でわたしの受け入れ教員となってくださったのは、コロンビア大学のガヤトリ・スピヴァク教授である。彼女とは、十年前に、大阪大学言語文化研究科が『言語文化学の今日と未来』というタイトルで、各国の一流研究者を招待してシンポジウムを開いたとき以来、交流がある。最初に言っておきたいが、スピヴァクというとその戦闘的な議論の印象が強いせいか、アメリカ人も含めて、知り合いの研究者は、ひどく怖い人なんじゃないかと思って、わたしのことを心配してくれている。だが、彼女は個人的には非常に気持ちのいい、社交的で、冗談好きな人である。今度の研修でもいろいろ面倒をみてくれたので、わたしは大いに感謝している。もっとも、彼女は今セメスターはサバティカルで、プリンストン大学に出張講義をしていたので、学期中、数回の、コロンビアでの研究集会を除いては、(研究室は隣の隣なのだが)ほとんど顔を合わせることがなかった。
 コロンビアの比較文学科(Institute of Comparative Literature and Societies)にはずいぶんよくしてもらっていると思うが、その最大の点はオフィスをくれたことである。当初、スペースに問題があるので、オフィスはないかも知れないといわれていたのだが、やがて、共同研究室ならもらえるということになって、今、使っている部屋をインド人の研究者といっしょに使うことになった。このインド人女性は、図書館で勉強するほうが好きだと言って、ほとんど部屋に来なかったし、五月には勤務先のベルリンへと帰ってしまったので、今はまったくぼくの専用である。
 ちなみに、日米の慣習の違いだが、米国の教員は研究室の扉はかならず開けっ放しである。日本では、学生と懇談するときとかをのぞけば、締め切っているだろう。日本の教員は、米国の研究者と比べると、居住空間の差から、大学の研究室で仕事をする人が多いせいだからなのではないかと思う。わたしもそういう癖が抜けないので、締め切っている。両隣の扉は開いているので、お隣の先生方は閉鎖的な、変な奴だと思っているかも知れない。別に中で何か悪いことをしているわけではないので、アメリカ流に振舞おうかともときに思うのだが、ひとりっきりになってからは、わりと乱雑にしていて、お昼ご飯のチャイニーズ・テイク・アウトの食べかすとか、紙コップとかいろいろちらかっているので、やっぱり恥ずかしいのだ。
 あとは、図書館へのアクセスである。日本の客員研究員だったらこんなことはあたりまえだが、米国では何でも金である。コロンビア大学の図書館を部外者が利用するためには使用料を払わなければならないので、比較文学科はわたしのためにそれを負担してくれている。図書館は延滞すると課金される仕掛けになっていて、なんでも金である。研究室のパソコンのプリンターがうまく動いていなかってので、情報センターの職員に来てもらって、セッティングしてもらったことがあったが、そのときも、その職員は比較文学科の秘書に、請求書はあとで回すとか言っていた。何か大学全体が独立した企業の集まりみたいだが、案外、責任が明確でいいのかも知れない。
 図書館はなんでもかんでもオンラインでできるようになっていて、これは至極、便利である。カタログ検索はもとより、相互利用の依頼もできるし、また、取り寄せた書物が到着したことの連絡や、返却期限が迫っている図書の案内なんかも電子メールで受け取れる。こういう仕掛けが大阪大学でもできたらいいのにと思う。

独立記念日に花火を見てきた。はっきり言って、日本の花火に比べるとしょぼい。40分の予定が20分ちょっとしか打ち上げていなかったし。不景気のせいであろうか。(花火はメーシーズ百貨店が主催している。)友人は、昨年に比べるとたいしたことないと言っていたので、ほんとうに今年は不景気のせいでしょぼかったのかも知れない。(7月4日)

ニューヨーク便り 二

ブルックリン美術館で村上隆の展覧会を見てきた。村上隆はすごいのでそのことをいろいろ書いてもいいのだが、ちょっと違うことをまず書く。案内が不十分だということだ。チケットを買って、突き当たりにあるエレベーターに乗れと言われて進んでいくのだが、ずいぶん裏手にあって、とちゅうでほんとうに合っているのか心配になってくる。乗ってもどこにも何の指示も書いていないし(あとでポスターに小さく、入り口は5階と書いてあるのに気が付いた)、村上の展示は4階と5階と美術館の入り口に書いてあったので、とりあえず4階でおりる。同じエレベーターに乗っていた家族連れもそこでおりて、ぞろぞろと入り口を探すのだが、見つからない。やがてガードマンに聞いて、入り口は5階だと分かり、エレベーターに逆戻り。5階に着くと、すぐ常設展の部屋になっていて、村上の展示は直進と書いてあるので、進んでいくのだが、やっぱり常設の展示をずーっと通り抜けていかないといけないので、不安になる。やっと部屋を3つくらい横切ったところに、村上展の入り口が見つかる。何か長々と書いたが、米国ではこういうことが多いのである。何がどこだかよくわからない、説明や掲示が不親切ということが。それで、思い出すのだが、去年の秋に阪大でロシア東欧学会をホストしたとき、一番、苦情が多かったのが、掲示がないということだった。案内板とか作ったのだが、数が足らなかったようだし、活字の大きさも足りなかった。どーんと大きな看板をあちこち至るところに出しておかないといけないのだ。つまり、日本人は赤子の手をひくように、いたれりつくせり世話をされることに慣れている。一方、アメリカ人は、人に聞くなりなんなりして、自分で何とかしろという考えが、多分、心の奥にはあるんじゃないかと思う。ちょっと深読みかも知れないけど。(7月10日)

ニューヨーク便り 三 資源の無駄遣い

アメリカは二酸化炭素削減に全然、乗り気じゃない国だが、国民全員にそんな気持ちが浸透してるような気がする。ほんとに資源やエネルギーの無駄遣いが多い。まあ、こんなことは、すでにアメリカを訪問する外国人のみんなが指摘することだから、目新しくもないが、いまさらのようにいろいろ気がつくので、それを少し書いてみよう。

まず、トイレのペーパー・タオル。どこのトイレでもペーパー・タオルなり、温風乾燥機なりがあって、ハンカチがなくても、手をふける(乾かせる)ようになっているが、このペーパー・タオルをみんな鬼のように使うのである。レバーがついていて、これを一度、下げると十五センチばかりタオルが出てくる。幅は二十センチくらいだろうか。ぼくなんかは、これ、レバー一回分か、多くても二回分で十分だと思う(ちなみに、ずいぶん前に新聞で、日々の生活の疑問に答えるみたいなコーナーがあって、トイレット・ペーパーについている切り取り線は意味があるのかっていう質問で、記者が製造会社に聞きにいったら、何もあの切り取り線ではさまれた部分が、一回分の目安ですってことはなくて、何となくああなっているということだった。ペーパー・タオルのホルダーを作っている会社も、別にレバー一回分が目安ですとか考えていないのだろう)。ところが、これを、アメリカ人(何を「アメリカ人」と称するかってのは、かなり問題だが)は、もう、親の仇でも討つように、何回もレバーを押し下げて――ぼくの個人的観察だと、平均、五、六回っていうところだと思う――一反木綿みたいに出てきたペーパーで手を拭くのである。おいおい、熱帯雨林を守れよな。

それから、自動扉。米国では、日本みたいに自動扉をあちこちで見ることはないが、その代わりに、かならずドアのどこかに身障者用の扉があって、ボタンを押すとあくようになっている。(たとえば、両開きになっているドアの、片側はこうして自動的に開けれるようになっている。)それで、扉を開けようとするとき、十人のうち、六、七人は、手動になっている方ではなく、自動の方を選んで、ボタンを押して、扉が開くのを待つのである。自分の力で開けたらいいじゃないか。そんなに面倒なのかね。(とはいえ、日本ではどこでも自動扉だから、エネルギー節約の面でいうと、もっと悪いかも知れない。もちろん、これは自動扉をやめろというのではない。身障者の人にとって、必要だ。理想的なのは、アメリカ式にして、そして、元気な人は自分の手で開けることだね。)

あと、冷房。日本も夏は冷房の効きすぎで冷え症になったりする問題があるが、米国でも、どこでもほんとに冷え冷えしている。コロンビア大学の図書館もそうで、多くの学生はカーディガンとかをはおって勉強している。日本では、適正冷房温度にしましょうなんていうステッカーを見かけたりするが、こっちでは見たことがない。冷房をゆるめてエネルギーを節約しようなんていう意識はまるでないみたいね。暑がりなんでしょうかねえ。地下鉄でときどきだれも乗っていない車両を見ることがあるけど、必ず、冷房が壊れている車両ね。だれ一人、乗らないから。それで、わりとしばしば、ぼくが一人、ぽつねんと座ることになる。みんな、何か変人がいるわ、みたいな顔して見てるし。日本でやっているような、「弱冷車」なんていうことを言い出したら、きっと総スカンなんだろうね。「弱冷車」が出てきたとき、その表示を英語でも掲示しようとして、どう訳したらわからないくて、ずいぶん紛糾していたことがあったけど、要するに、こういう意識が米国にはないんだから、訳しようがないわね。(7月18日)

ニューヨーク便り 四

 HSBC銀行に口座を開いた。カードが届いたので早速、使おうとしたら、ATMからsaving accountに入金できない。カスタマー・サポートに電話してみると、明らかに移民の女性が応対に出る(最近、日本でもソフトウェアのサポートの電話なんかにかけると、たいてい、中国人とおぼしき女性が対応する。)それで何がどう困っているんですという説明をするのだが、そのたびに彼女がとってつけたような、感情のこもらない言い方で、I am very sorry to hear about it.というのである。感情はこもっていないが、大体、アメリカは訴訟社会でうかつに謝ったりしてはいけないとされる。それなのに彼女がしきりに「謝る」ので、へーっと思って感心して聞いていたのだが、あとでよくよく考えると彼女は「謝って」いないのだ。I am sorry to hear about it.っていうのは、「それはお気の毒でしたね」というだけで、「その件について陳謝します」ではない(ほとんど、そう聞こえるんだけど)。たぶん、これはマニュアルがあって、応対のテクニックになっているんだね。機械的にこの女性が繰り返していたことからもそう推察できるんだけど、何か苦情が出たら、「気の毒でした」と言うことになっているに違いない。「すいません」と言っているように聞こえるので、客は納得するのだが、もし、責任問題に発展しても、「気の毒でした」と言っただけで、誰のせいかということは明言していないといい逃れることができるようになっているのだ。アメリカだなあ。(7月27日)

ニューヨーク便り五

“Last year 1,944 Americans saw something and said something.”という掲示が地下鉄のあちこちに出ている。テロ対策で、怪しい人を見かけたら通報してくださいというのだろう。テロを避けたいのは分かる。だが、この二千人のうちの何人がテロリストなのだ? やはりこういうノリには、危険なKGB的感覚をかぎとらずにはいられない。こんなことを言うのも、ぼくは一度、アメリカで警察にその手の取り調べを受けたことがあるからだ。1991年だったと思う。プリンストンに留学中のことだったが、ニューオーリンズで行われた、アメリカ・アジア学会(AAS)に出席した。ニューオーリンズの空港で飛行機から降りて、市街に行くバスに乗ろうと、空港の中をバス停に向かって歩いていたときだ、とつぜん、コートを着た(今、思うと刑事コロンボみたいな感じの二人だったなあ)二人組の男が近寄ってきて、警察手帳を示しながら、どこへ行くんだと言う。市街に行くのだというと、おまえは怪しいから少し調べるのだと言う。何が怪しいんだと、少し鼻白んで聞くと、ニューオーリンズ空港は国際空港で乗客はみんな遠くから来る、ところがおまえはスーツケース一つ持っていない、怪しいと。ぼくは軽装で旅行するのが好きで、そのときもスポーツバックみたいなの一つだった。そのせいで尋問されることになるなんて、まあ、思いもよらなかったね。自分はプリンストン留学中なんだと学生証も見せたんだけれど、相手にしてくれない。それでちょっとすみの方に連れて行かれて、携行品を調べられたり、ボディチェックをされたりした。そうだ。国際空港でスーツケースを持って歩いていないと怪しいんだ。ニューヨークで去年「怪しい」と警察に通報された二千人のうちの、どのくらいの人がぼくより怪しかったんだろうか?(9月5日)

ニューヨーク便り六

ハーレムの有名なアポロ劇場に行ってきた。和田アキ子も最近、公演をしたところ。大学の近くで、便利なのだ。水曜日はアマチュア・ナイトということになっていて、素人のど自慢大会みたいなのをやるのだ。アポロ劇場はすっかり名所化しているみたいで、観光客がいっぱいだったが、特に日本人が多いのに驚いた。ショーが始まると、肝心ののど自慢大会が始まる前に、客席から何人かをステージに上げて、踊らせるという余興があった。ところが、ショーのホストが、いきなり「そこの日本人カップル」といって指名するのだ。日本人観光客が多いからかなと思って見ていたけど、これは多分、違うのだ。カップルは舞台に上げられて、女の子の方はすっかりどぎまぎしていて、「わたしだめなんです」っていうノリ。ホストがその真似をすると観客は爆笑。踊れといわれても、だめだめするだけだし、ついに二人のホストにはさまれて、真似して踊り始めるのだが、ホストは盆踊りみたいな振り付けをして、三人で踊る。観客は大笑い。ここでぼくは勘ぐり始めたのだが、ホストはわざと日本人を舞台に上げて、反応も予期していて、それで笑いを取ろうとしているのに違いない。ちょっとこれは一種の人種差別なんじゃないかと思うね。まあ、面白かったし、笑えたけど。ちなみにカップルの男の方はすごい踊りを披露して、記念品をもらったので、びっくり。(9月24日)

ニューヨーク便り七

八か月のフルブライト研修もついに終わりに近づいている。ずいぶん勉強をしたと思う。コロンビア大学は、予期していなかったのだが、スラブ関係の蔵書がたいへんに充実していた。とくに米国在住の亡命ロシア人に関する資料は、当然ならが、よくそろっており、勉強になった。比較文学科は苦しいオフィス事情にも関わらず、研究室をくれたので、毎日、遅くまで、大体十時くらいまで勉強していた。十時くらいというのは理由があって、ぼくは、普通、コロンビアの人が使う地下鉄一号線の116番街の駅ではなく、ハーレムの125番街の駅を使って通学していた。駅までは少し遠いが、エクスプレスの地下鉄に乗れるし、125番街の駅はA、B、C、Dと四つの線が乗り入れていて、待ち時間が少ないのだ。ところが夜の11時近くになると、極端に電車の数が減るのである。D線のブロンクス側にはヤンキース・スタジアムがあって、試合のある日に十時頃、帰るとものすごく混んでいるので、後には、インターネットで調べて、試合のある日は早めに帰ったりした。まあ、八か月の研修だったが、ニューヨークの暮らしはずいぶん要領よくできるようになったと思う。

研究の話を続けると、アルヒーフにあった亡命ロシア人作家とチェーホフ名称出版社との往復書簡も面白かった。とくに興味深かったのはブーニンの手紙だった。ひどく怒りんぼのおじいさんで、たとえば『アルセーニエフの生涯』に、著者紹介の序文をつける件で怒り狂って、著書も多数で、世界各国の出版社から本を出しているこの(著名な)わたしの「紹介文」とは何たることだという、火を噴くような文章。チェーホフの書簡を引用し、ほらここに、ブーニンは才能ある作家だと書いてある。そのチェーホフの名前を冠する出版社がわたしを侮辱するとは、、、 かと思えば次の手紙には、怒りすぎて悪かった、あなた(編集者)の健康を気遣ってくれる言葉に感動した、わたしはもう高齢で、さびしいのだとか。ほんとうに「人間」らしいというか、子供っぽいというか。また、お金のことにも細かく、出版が延期になったのを知らずにお金のかかる航空便で原稿を送って損したとかぶつぶつ言ったり。亡命ロシア人作家は一般に貧乏で、どこかで、ノーベル賞をもらったブーニンはちょっとましだったが、それも長く続かなかったと書いてあったが、なるほどである。ニューヨークでの研究のことに話を戻せば、ニューヨーク公立図書館も、当然ながら、非常に充実していて、古い雑誌などをいっぱい読んだ。それからピッツバーグ大学のアルヒーフに行って、イヴァン・エラーギン関係の資料をコピーしてきた。夜行のグレイハウンドで、ピッツバークには一泊だけして、とんぼ帰りをした。ちょっときつかったな。

 これは研究の話だが、ほかの活動としては、博物館はほとんど行き尽くしたし、カーネギー・ホール、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・シティ・バレー、ミュージカルでは『シカゴ』と『コーラス・ライン』、それから『ストンプ』は爆笑だったな、夏にはあちこちで無料のコンサートがあって、ニューヨーク・フィルの公園でのコンサートを二回きいた。ミュージカルの『ヘアー』もただで見た。ほんとに面白かった。あからさまに反愛国主義的で、こんなの今、かけていいんだろうかと心配した。今年で取り壊される(旧)ヤンキーズ・スタジアムでのヤンキースの試合も見たし、メッツの試合も見た。USオープンでセリーナのゲームも見た。ピクニックやバーベキューも友達とたくさんしたし、あっちこっちのバーにも行ったし、あんまりあからさまには書けないけど、まあ、遊びもいっぱいしました。

九月には講演旅行を兼ねて、二週間、南部をドライブ旅行した。ノースキャロライナのファイエットヴィル州立大学、ハンツヴィルのアラバマ大学、タンパの南フロリダ大学で講演した。タンパでは日本のマンガ、アニメについて講演したのだが、何かたぶん、百人近い聴衆が集まって、それもみんなすごく関心が高く、話ももりあがってびっくりした。南フロリダ大学では日本語熱も高いそうである。講演後、キーズに行った。観光写真とかでおなじみだが、やはり、島から島へ、ハイウェーが何百キロと続く光景は格別である。ところどころに見えるビーチもとてもきれいだった。南端、キースウェストはとてもアメリカの町とは思えない。バイカーが轟音を立てて、ダウンタウンを走り回っているし、身長180センチ以上の女装の男性が群れをなして歩き回り、あちこちにトップレスのおばちゃんがいたし、ビールは平気で路上で飲んでいるし(州によって違うんだろうけど、一般に米国ではpublic spaceでは飲酒禁止である)、、、

十月からは仕事仕事だ。トホホ。(9月28日)


リンダ・ハミルトンとヨコタ村上孝之は、オレーグ・ゴルヂエンコ著『アルメニア人の男妾』を翻訳予定である。